コモンズ代表・ジャーナリスト 大江 正章(第2687号・平成21年7月20日)
四国に、地域づくりの先進例としてとりわけ注目されている3つの町村がある。多くの読者にとっては周知だろうが、 馬路村(高知県)、 上勝町(徳島県)、梼原町(高知県)だ。
3者には、森林が占める比率が非常に高い、県庁所在地から約2時間かかる、視察者が多いなどの共通点がある。その一つが合併せず、自立の道を歩んでいることだ。人口はいずれも少ない。馬路村が1,082人、上勝町が1,999人、梼原町が4,327人(09年6月1日現在)。馬路村は四国の村で最少、上勝町は四国の町で最少で、全国992町村中でも965位と920位である(梼原町は790位)。
しかし、それぞれ、ゆず加工、日本料理の見た目を飾るつまものの出荷、環境の保全に配慮した森づくりの認証を受けた木材生産で、地域は活気を帯びている。どれも、自然環境豊かな山村ならではの仕事であ る。新たなビジネスとしてもてはやされているが、むしろ地元の資源を活かした生業と言ったほうがふさわしい。
つまものの乾燥を避けるために霧吹きで水をかける(上勝町)
また、Iターン者(よそ者)が多い。馬路村は88人(00~07年)、上勝町は 85人(85~05年)定住している。人口に占める比率は、8.1%と4.7%ときわめて高い。魅力と働き場所があるから、都会から人が移住する。そして、観光地ではないが、訪れる人も決して少なくない。
馬路村を象徴するのは「ごっくん馬路村」。馬路村農協(やはり合併していない)が販売している、ゆずと蜂蜜を原料にしたドリンクだ。これだけで年間7億円近くの売り上げになる。ゆず加工品全体の売り上げ は、産直・通信販売を中心に30~33億円にものぼる。顧客名簿は35万人、一度でも購入すれば年に数回、インパクトあるイラストを駆使した商品案内パンフレットが届く。そして、加工・販売で約80人が働く。大雇用源である。ゆずの出荷農家は 村内農家のほぼ3分の2に及ぶ。
だが、当然ながらそれは一朝一夕にして達成されたものではない。かつては林業で栄えた村は、安い外国産木材の輸入と79年の営林署の統廃合で、危機に立たされていく。その 年、栽培が盛んだったゆずの加工品づくりが始まった。県内各地でゆずが豊作で、販路開拓に迫られてのことである。当初は売れなかった。当時、営農販売課長だった現在の馬路村農協組合長が、こう語る。
「産地化するためには加工と考えたけど、金はかかるし、周囲に理解はされないし、簡単ではなかった。そんでも、農家が作ったゆずをなんとかしたいという思い入れがあったから、売る仕組みを見つけようと都会へ何度も足を運んだ」
こうした試行錯誤の結果、デパートの催事などでの販売をとおして消費者と直接結びついたのである。80年代後半のことだ。
「そのうち、田舎でがんばるものを応援しようというイメージが都会の消費者に形成されていく。何もない村だけど遊びに行ってみようかとなってきたんです」
ただし、ゆずの栽培面積は県内4位の43haにすぎない。この成功は、化学合成農薬や化学肥料を使わず、安全性と品質にこだわった豊富な商品ぞろえと、宣伝・パッケージを含めて常に「馬路村をアピールしていく」戦略の賜物である。だから、「ごっくんゆずドリンク」ではなく、「ごっく ん馬路村」なのだ。
上勝町も梼原町も、過疎化が進む地域をなんとかしようという思いから、苦労を重ねた末、現在の成功に至っている。前者は農業改良普及員だった現在の株式会社いろどり(つまものの出荷販売を担う第三セクター)代表、後者は 森林組合理事長がリーダーである。
上勝町でいろどりに参加する農家は約200軒、町内農家の半分にのぼる。主力メンバーは60軒程度で大半は女性、平均年齢は70歳だ。商品アイテム数はほぼ300。要する に、身近な庭や畑や山が商品棚というわけである。かつては落ち葉はきで邪魔者扱いされていた庭のもみじや柿の木は、収入を生み出す宝の木に変わった。平均売り上げは150万円程度、300万円以上が約 40人という。
「彩(いろどり)」のシールが貼られた紅葉もみじ(上勝町)
山が深ければ、もみじや柿の葉の色がよくなる。集落は標高100~700メートルの間に点在するから、気候の違いを活かして出荷時期を長くできる。かつてはマイナスとみなされていた条件 をプラスに転化して、高齢者向けの新たな産業が創出されたのである。
梼原町森林組合が経営する森林価値創造工場(一般でいう製材工場)の製品販売単価(1立方メートル) あたり)はは、森林認証取得前の99年度の約41,000円から、取得後の05年度には約51,000円と、24%も伸びた。ところが、林野庁の統計によると、全国では99年度と04年度を比べると11%下がっている。
また、販売先はこの6年間で、工務店への直接販売の割合が22%から60%へと急増した。これは顔の見える関係のなかで環境面に配慮した木材を求める人たちの需要を確実に捉えたことを表している。
ここまで書いた内容は、合併に関する考察を除けば、いわゆる地域おこしの世界ではよく語られている。3町村に共通している本当に重要なポイントは、別にある。特徴的なものをあげてみよう。
まず、決して「一村一品」ではな いことである。馬路村の場合は、もともと村を支えていた林業の振興に力を注いでいる。第三セクターのエコアス馬路村(社員数21名)を2001年に創設し、造林や間伐に加えて、加 工と販売に力を入れてきた。杉の間伐材からつくったバッグ、座布団、名刺、うちわ、ストラップ・・・。新製品が次々に生み出される。さらに、高知市にアンテナショップをつ くり、馬路産木材の家づくりに結びつけている。
上勝町は、主産業のミカンが寒波で壊滅した後に、軟弱野菜や椎茸栽培に取り組み、売り上げを伸ばしてきた。梼原町では、全国に先駆けて92年度から始めた千枚田のオーナー制 度、和紙の伝統や龍馬脱藩の道などの資源を活かしたグリーンツーリズムが盛んだ。
つぎに、環境保全型行政との連携である。梼原町では、2基の風車で町内電力消費量の18%をまかなうほか、四国電力へ4,000万円前後を売電し、環境基金を積み立てて、町独自の水源地域森林整備交付金(1haあたり10万円)にあてている。林野庁の森林セラピー基地の認定も07年にうけた。町産の認証材を用いて家を建てる場合、200万円を上限に補助金を出す。役場も保育所も体育館も木造である。
上勝町では、2020年までに町内のごみをゼロにすることをめざし、ごみの34分別を行ってきた。1人あたり排出量は全国平均の3分の1にすぎない。馬路村では、農協と村が精神的にも金銭的にも密接な関係を築いてきた。農協は毎年5,000万円程度を農林業振興や河川環境保全などに拠出している。
動物も植物も多いモデル林(檮原町)
そして、住民たちが生きがいと地域への誇りをもつようになった。これがもっとも重要である。なかでも、上勝町のおばあちゃんたちの明るい笑顔は、きわめて印象的だ。つまものの採集や出荷は「軽い、きれい、根気」の3Kだと言い、売り上げ順位に一喜一憂し、一流料亭でどう扱われているかを見に、お洒落して出かける。身体を動かし、頭を使い、常に出番があるから、みんな元気だ。高齢化率48%と「限界自治体」に48近いにもかかわらず、寝たきり老人は2人で、町営老人ホームは廃止された。1人あたり医療費(国民健康保険による支払額)は合併前の県内市町村50市町村のなかで19番目に少ない。
間伐をして木の間隔を開ける。春には山菜がよく採れる(檮原町)
つまものを出荷するために桜や桃や梅や紫陽花が植えられ、花が咲き乱れる。自然環境に根ざした生業は山村に好循環をもたらし、人を惹きつける。小田切徳美氏(明治大学教授)が的確に指摘する、過疎化の進展による「誇りの空洞化」が、ここには見られない。
06年12月に有機農業推進法が成立し、09年度は全国に49の有機農業モデルタウンが存在する。。かつては「勇気農業」などと揶揄されたが、いまや有機農業の推進は国と自治体の責務なのである。とはいえ、全国的に見れば取り組みが進んでいるとは言いがたい。そのなかで、注目を浴びているのが小 川町(埼玉県)と旧八郷町(現在は石岡市、茨城県)である。前者は地元農業者主導型、後者は農協・Iターン農業者並存型だ。有機農業とは、単に農薬や化学肥 料を使用しない特殊な農法ではない。それは、農業が本来めざしてきた豊かで安定した生産体系である。作物の生きる力を引き出し、健康な食べものを生産し、人間と自然・生き物・土の間に有機的な関係を創り 出す営みと言える。
消費者が参加する米作りも盛んだ(小川町)
小川町では日本を代表する有機農家が71年以来、先駆的に有機農業に取り組んできた。いまでは、米・麦・大豆・野菜約60品目と、鶏・乳牛の有畜複合農業が完成し、提携消費者 との安定した関係がつくられている。さらに、彼がリーダーとなって町内へ大きな広がりをみせ、その研修生を中心に22人の「小川町有機農業生産グループ」に発展。毎年のように新規就農者が生まれ、有機農業のメッカとなっている。慣行栽培農 家の有機栽培への転換も進んできた。地域づくりの視点から特筆すべきは、地場産業との連携である。
88年からは酒造会社と無農薬米で「おがわの自然酒」(日本酒)、精麦会社と無農薬小麦の「石臼挽き地粉麺」づくりに取り組み、成功を収めている。味の評価は非常に高い。04年からは大豆(地元に伝わる在来品種) の集団栽培が開始された。無化学肥料・無農薬で、埼玉県の特別栽培制度の認証を受けている。作付面積は5.6で、約10トンを豆腐屋2軒10haに販売する。これらの取引価格は、いずれも慣行栽培より高い。
旧八郷町には 70年代に、消費者たちが自給をめざす「たまごの会」の農場ができた。その生産者が独立して有機農業を営み、彼の周囲に徐々に新規就農者が増えていく。また、農的暮らしと自給的な生活技術を指導する「スワラジ学園」からも、地元に定着して有機農業を行う若者たちが生まれてい る。
こうした多様な「民」の力とともに、JAやさとは全国でも例のない有機農業にしぼった「ゆめファーム新規就農研修事業」を99年度から始めた。研修生は毎年1家族、研修期間は2年。研修中は毎月16万円の助成を受ける。半分は茨城県ニューファーマー育成事業の助成金、半分はJAの独自資金(年間96万円)である。
2年に1回は合鴨を田んぼに入れて除草する(小川町)
研修生は約70aの研修農場で、販売用に作付計画をたて、作物を育て、収穫する。研修担当者はいる が、常にそばについて何でも教えてくれるわけではない。研修生は先輩有機農家を見に行き、質問し、研修農場で実践する。収穫した作物はJAやさとを通じて出荷し、JAの独自資金分の研修費と資材経費を差し引いた額を、研修終了時に受け取れる。
生活費は保証されているものの、 なかなか厳しい条件だ。有機農業への憧れだけでは、とてもつとまらない。それでも、これまでに研修を終えた9家族はすべて独立して、有機農業に励んでいる。当初から本格的な栽培に携わり、理念だけでなく、経営も追求していることが、成功の秘訣だろう。
JAやさとの有機栽培部会は、彼らを含めて28世帯にまで増えた。もちろん、それ以外にも専業、半農半X、さらには都会から通う週末農民まで、さまざまなタイプの有機農業 者がいる(暮らしの一部に自給的な農を取り入れる半農半Xは、若者を中心に実践者が急増中)。
消費者の間には有機農業への期待が高い。農外からの新規参入者の大 半は有機農業を志向している。ところが、実際に有機農業で生計を立てている生産者は、全国レベルではまだそれほど増えていない。自治体であれJAであれ、地元の数少ない有機農業者の力を借りて、実践的な研修システムを設けていくときである。長い目で見れば、それがホンモ ノの環境保全型地域社会の実現につながっていく。
私は90年代なかば以来、アジア太平洋資料センターというNGOが主宰する「自由学校」の企画をたてたり、講師をしている。ここは、真の豊かさや自分らしい生き方を求める人たちの出会いと学びの場だ。数年来、その人気講座が「エコを仕事にする」である。定員がすぐに一杯になる。08年度の受講生は32人。そのうち3人もが、09年の4月から6月にかけて、仕事を辞めて地方へ移住した(さらに1人が移住を準備中)。
40代後半の男性は、自然農をしっかり学ぶために、有機農業が盛んな綾町(宮崎県)の「賢治の学校 綾自然農生活実践場」の実習生になった。田畑あわせて7反で、米・小麦・野菜・そばを栽培し、すでに野菜は95%を自給しているという。
「10年ほど前からスローライフに関心がありつつも、一方で田舎暮らし願望は現実逃避ではないかとの疑念も抱いていました。でも、「半農半X」を知り、これがめざすライフ スタイルだと確信しました」
30代前半の女性は、30年にたまたま訪れた小国町(おぐにまち、熊本県)の風景と人に強く魅せられた。その後、町で行われている九州ツーリズム大学に参加して毎月訪ねた末、移住を決意。当面の仕事が見つかり、6月末に引っ越した。「ゆくゆくは小国のような田舎のよさを街の人に伝える仕事がしたいです」と、新たな人生にまさに胸をふくらませている。
これまで人の移動は、もっぱら「地方から都会へ」だった。有史以来はじめて、逆の流れがいま生じている。魅力的な地域への定住者(Iターン者)は確実に増え続ける。
「限界集落」を「水源の里」と読み 替え、「特産品のない農業」を「地産地消や有機農業に適した農」と読み替えたとき、新たな地域づくりと仕事の方向性が見えてくる。中山間地の実態を知っている人たちにとって、農業の企業化・大規模化に展望がないのは自明の理だ。総務省の椎川忍地域力創造審議官も、「農業を企業的に再生する考え方もあるが、農山村の再生にはならない」(『日本農業新聞』2009年6月18日)と述べている。そもそも、農林漁業は単なる 産業ではない。いのちの源を生み出し、かけがえのない自然環境を守り育てる生業であり、未来につながる持続可能な暮らしを創る大切な仕事である。
故・長洲一二氏(元神奈川県知事) が「地方の時代」を提唱して30年。今後を「農山村の時代」にできるかどうかは、まち・むらが本稿で紹介したような内発的発展の道を歩むか否かにかかっている。