読売新聞東京本社編集委員 青山 彰久(第2784号・平成24年1月9日)
巨大な大津波と世界最悪レベルの原発事故が東北を襲ったとき、多くの人々が強い衝撃を受けたことだろう。あれから10か月、多くのまちやむらはいまだ復興にほど遠い。土に生き、海と生きていた人々はいま、希望を探そうと苦しんでいる。全国の町村の人々なら、その悲しみや苦しみ、人々を暮らし支える小さな自治の意味が最もよくわかるはずだ。2012年の最大の課題は、昨年以上に、被災した東北のまちやむらの復興である。この復興を町村の自治問題を凝縮する重要課題としてとらえたい。被災地と悲しみや苦しみを分かち合い、暮らしの再建を支える小さな自治を全面的に支援しなければならない。
昨年暮れ、福島県南相馬市内で、原発避難の取材を通じて知り合った人の両親の葬儀に参列した。亡くなったのは、東京電力福島第1原発の事故に伴う警戒区域の旧小高町・川房地区(現・南相馬市小高区)に暮らしていた97歳の夫と91歳の妻の夫婦だった。
阿武隈山地の麓に広がるこの地区は、江戸時代から続く古い集落で、かつては養蚕と葉タバコで富を蓄え、多くの篤農家も輩出してきた。3年前、地方自治の勉強会が縁でこの集落を知り、水のおいしさと、住民同士がいくつになっても「定男ちゃん」「明子ちゃん」などと呼び合う雰囲気が忘れられなかった。それが「3・11」で一変した。16キロ離れた原発が爆発し、すぐに全員避難だと指示された。97歳と91歳の老夫婦も、家族の車に乗せられ、吹雪の中を西へ逃げた。着いたのが新潟県見附市。現地の人々の配慮で老人施設に入ることができたが、生まれてから一度もふるさと以外で暮らしたことのない2人にとって「見たことも聞いたこともないまち」だった。
2人は原発避難前までは元気で、野菜をつくりながら家族に囲まれ穏やかに暮らしていた。だが、妻は転倒して入院した病院で10月11日の朝、息を引き取った。支えを失った夫も12月1日、脳梗塞の発作で亡くなった。
原発避難がなければもっと生きていられただろう。葬儀では、原発事故など考えもしていなかった2人が、生前のある日、「農家の仕事がひまな時、穏やかな日に旅立てれば幸せだ」と話していたことが紹介された。「帰りたい」と願った2人だったが、自宅がある一帯はいまも立ち入り禁止で、骨になっても帰ることができない。
73世帯・約300人が生活していたこの集落。避難先で亡くなったお年寄りはこれで6人目だった。
原発事故とは何か。人々にとってはまず、何代にもわたって土づくりをしてきた「土地」と清浄な「水」があった。それで田や畑ができ、その上に家が建っていた。そこに家族が暮らし、それぞれの家族には夢があった。そうした家族が隣近所ごとに支え合い、春祭りや盆踊りや収穫祭をやりながら暮らしてきた。それが地域であり、そうした地域が集まって構成されるのが自治体だった。これらはすべて一つにつながっていたのに、原発事故で一瞬のうちに引き裂かれ、土地を奪われ、家族も地域もバラバラにされたのだ。
「原発避難者の中には、もう帰ることをあきらめた人も多いのでしょ? パチンコばかりやっている人も出始めているんだって?」
ある省の幹部にこうきかれたことがある。もちろん、人々は「戻りたい」という望みと「戻れるのだろうか」という不安の中で揺れている。だが、その時、避難先で会った様々な人々の顔が思い浮かび、黙っていられなくなった。
「土地と水と家族と地域が一体になって暮らしていた日々が破壊されたことの意味がわかるのか。壊された生活を元に戻すために、誰がどれほど手を貸しているのか。そもそも、避難を強いた原発の事故に、彼らに何か非があるのか」
その時の私にしてみれば、浜通りの人々が、土地を奪われた悲しみに耐え、いつも一緒に過ごしてきた地域の人々のことを思いやり、いつか必ず帰る日がやってくるという希望を探しているように思えた。「地域の中で幸せに暮らす」ということの重みを教えられていたのである。
原発は安全だと唱えてきた東京電力と政府。だが、その原発を爆発させてしまい、人々を期限のない避難生活に追い込み、地域を存続できるかどうかの淵に立たせた。安全の仕組みをつくらなかった東電と政府は結局、地域の暮らしや人々の幸せ、そこで繰り広げられる自治を軽んじてきたと思わずにはいられない。
清浄な水と土と空気。これは土に生きる人々が生存するため、まちやむらを成立させるための絶対条件だった。
他方、津波に襲われた現場に目を転じてみたい。昨年秋のある日の夕方、北上川が太平洋に注ぐ宮城県の旧北上町(現・石巻市)の浜に立ってみた。津波によってほとんどの建物は消えていた。誰もいなかった。その風景を見ながら、東北の漁村と農山村を20年にわたって歩き続けている仙台在住の民俗研究家・結城登美雄さんの言葉を思い出した。
「震災のずっと前、北上町の浜で聞いた言葉がある。『ここは本当にいい所だ。ここはお金が少なくても楽しく暮らせる。フノリ、岩ノリ、ヒジキ……。海からごちそうが次々にやって来る。ここは私らのデパートだ』と。災害直後に電話をかけた。『もう海なんか見たくない、来ないでくれ』と言われた。それでも約1か月後、その浜を訪ねた。何人かががれきの片づけの手を休めて話してくれた。『こんな情けない姿になっちまったけど、あんたならわかるよね、何度もここに来たことがあるんだから。ここは本当はいい所だよね。ここはデパートだ、ごちそうが海から次々に来るって言ったよね』。俺には、人々はがれきを片づけながら、『ここは本当はいい所』のかけらを探しているように思えたよ」
旧唐桑町(現・気仙沼市)の浜にも行った。何人かが網を直していた。その風景を見ながら、ここでも結城さんの言葉を思い出した。
「災害直後は『もうおしめえだ。今度ばかりは、とどめを刺された』と言った老人が唐桑にいた。だが、2か月後にもう一度訪ねると、老人はグラインダーなどの工具を持って浜でうろうろしていた。小船の修理をしていたのだ。『海から引き揚げてみたら、たいしてやられてねんだよ。直ったらもう一度やってみようと思うんだ』と言うんだよ」
多くの命を奪った海なのに、もう一度、その海と生きようという漁師たち。海のまち・気仙沼市は、津波で1,400人以上の命が奪われた災害を乗り越えるという意味を込め、復興計画の理念を「海と生きる」に掲げていた。
今回の大震災の特質と復興の論点を改めて考えたい。この震災の特徴は、①被災地が500キロにおよぶ太平洋岸の広範な地域に広がり、数多くの個性あるまちやむらが破壊された②原発事故による放射性物質の拡散によって福島県浜通りの町村を消滅するかもしれないという不安に陥れた――の2点にある。
中央政府が各自治体の復興計画を策定することは不可能に近い。地域づくりは市町村自治の根幹であり、復興計画の決定主体は市町村である。政府は復興の枠組みを作り、自治体に自由な財源と権限をわたし、県と一緒になって市町村の政策立案を促し、住民の参加と議会の役割の発揮という地方自治の根本的な機能を全面的に支援する。行政機能がマヒした自治体には、全国から専門職員を送り込んで復興の地域づくりを支援しなければならない。
地域づくりの手法もよく考えなければならない。被災地はいずれも経済の疲弊と人口減に悩んできたまちやむらだ。道路や防波堤の復旧、区画整理や高台移転などのハード中心に終始する「開発型復興」だけでは問題が解決しない。農漁業の再生と人々が互いに暮らしを支えあう仕組みをつくる「生活重視型復興」でなければ地域の再生につながらない。
しかし、現実はどうだろうか。
福島は「出口のないトンネル」の中を歩かされている。再生のカギを握る放射性物質の除染作業は、事業主体をめぐって環境省、国土交通省、農水省の協議が長引き、ようやく体制が決まったのは震災から5か月後の8月だった。除染方法を決めるモデル事業は大幅に遅れ、冬を迎えた。本格的な作業は春以降になる。
政府は12月、本格除染を始めないうちに「帰還困難区域」の指定と土地の買い上げ方針を打ち出した。野田首相は「原子炉が冷温停止状態になり、発電所の事故そのものは収束した」と宣言した。避難者からは「原発事故をもう忘れよと国民に呼びかけたのか」と落胆の声が上がり、首長たちは「みんなで戻ろうと呼びかけている時に、政府は我々の気持ちを逆なでする」と怒った。
宮城・岩手はどうか。市町村合併で併合された旧町村の復興が遅れている。宮城県の旧牡鹿町、旧雄勝町、旧北上町などは手つかずの地域が多い。かつてのように政治と行政と住民の拠点となる役場があったらと思わずにはいられない。
もちろん、希望がないわけではない。岩手県の旧三陸町(現・大船渡市)越喜来地区などでは、地域住民が自ら復興委員会をつくって自律的に住宅の移転や商店街の再建計画を立案する動きもでている。だが、問題は、市町村と住民の復興を後押しするための制度と財源が乏しく、集権型の制度から転換し切れないことにある。公共事業だけを突出させず生活の復興を目指した住民参加の地域づくりを目指そうにも、豊富な資金に支えられたインフラ復興の公共事業とは違い、住民参加の地域づくりに使える自由な財源がない。市町村が自由に使える災害復興基金の配分が遅れているのだ。
東日本大震災の復興の行方は、2012年も引き続き自治運動を展開する町村行政の課題を凝縮しているように思える。全国の町村は、土に生き、海と生きる人々とともにある。そうだとすれば、この復興問題を「小さな自治」を守る制度と運営のあり方として共有できるのではないだろうか。
もう1度、福島の現場に戻ろう。心配なことがある。
昨年暮れ、野田内閣の政務三役の1人が、原発避難が続く自治体の首長の一人に、こうもちかけた。
「これからのことを考えれば、被災した市町村同士が合併する選択肢があるのじゃないか。あなたのところと、この町、あの町が合併して、インフラの整備を一気にやったらどうか。同じような要望を出してバラバラにやるより、一緒の方がいい」
その首長は話をさえぎった。
「ちょっと待ってほしい。住民の意向や考え方も聞かなくちゃいけならないし、そんなに簡単な話ではない。やめてほしい」
自治体規模を大きくすれば復興行政が効率的に進むと考える政府関係者は少なくない。だが、それはインフラ整備至上主義に立って「陳情型開発復興」を目指せといっていることに等しい。そうではない。被災者の生活を支援する対人公共サービスを独自の方法で住民に寄り添って行う「分権型生活復興」を重視するなら、小さな自治を国と県が全面支援する道筋を重視するという政策が成り立つはずだ。平成の市町村合併をくぐり抜けてきた全国町村会だからこそ、被災町村を守り、被災地の人々の苦しみを共有する復興運動の先頭に立つことを願っている。
青山 彰久(あおやま あきひさ)
読売新聞東京本社編集委員
読売新聞横浜支局、北海道支社、東京本社地方部、解説部次長を経て2007年4月から編集委員。地方自治を担当。現在、日本自治学会理事・企画委員、総務省過疎問題懇話会委員、千葉大学法経学部非常勤講師。地方6団体・新地方分権構想検討委員会委員などを歴任。著書に『よくわかる情報公開制度』(法学書院)、『住民による介護・医療のセーフティーネット』(東洋経済新報社、共著)。『雑誌「都市問題」にみる都市問題1925-1945』( 岩波書店、共著)など。長野市出身。