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町村の優位性をどう活かすか~“町村だからできる”を極める~

印刷用ページを表示する 掲載日:2022年1月10日更新

法政大学教授 岡﨑 昌之(第3185号・令和4年1月10日)

はじめに

若い世代の農山漁村への関心の高まり、移住・定住者の拡大、環境先進地域としての評価、こうした動向を受け止め新しい農山漁村を築こうとしてきた町村であるが、その矢先に新型ウイルスパンデミックが日本のみならず全世界を席巻した。多くの人が集い、多様な人が交流し合うことが、新しい価値を創出し、これまでになかった斬新な場を生み出すと期待されてきた。しかしそれが無残にも打ち砕かれたかに思える事態が起こった。

だが幸いにも町村はこのパンデミックの主要舞台ではなかった。パンデミックは主として都市部、それも大都市での災禍であった。人口は少なく、適度に疎な町村の生活環境は、都市部に比べてこの状況下で優位に働いた。

小規模の優位性

多くの町村は市に比べ、人口において小規模であることはいうをまたない。もちろん町村も一律ではない。1島1村で人口も少ない離島の村、山中にシマのように点在する沢山の集落を抱える山村、他方、沖縄県読谷村のように、人口が4万人を超え、過疎高齢化や少子化などまったく無関係だが、市へ“昇格”するのではなく、地域の歴史性、文化性を重視し“村”にこだわる町村もある。それほど多様なのが、南北3、000㎞を超える日本列島に存在する日本の町村である。

平成の市町村合併で合併した町村もあるが、合併して市になった地域に比べると、合併した新町村はせいぜい2、3の旧町村の合併に過ぎない。もちろん昭和の合併前の町村と比べるべくもないが、町村の人口や面積での小規模性はひとつの特質といえる。

では小規模性の利点とは何か。それは役場や議会等の政策決定機能や地域運営機能と住民の暮らしの場の圧倒的な近さである。最終責任者である町村長も住民にとって身近な存在といえる。そこには行政対応や自己決定の身近さが存在する。肥大化した大都市はいうをまたず、広域合併し広大な面積を抱え、出先機関となった旧町村役場にはわずかな職員しか常駐していない地方都市とは比較にならない。

それに加えて農山漁村における住民間の関係の深さも見逃せない。長く同じ集落で種々の行事や共同作業を共にしてきた住民の間には、互いに助け合って生きていく協調性や安心感がある。それは現在の世代だけに留まらない。「あんたの祖父さんには世話になった」と時代や世代を越えたつながりが現代にも活きている。若い世代にはこれに対して多少の負担感もあるだろうが、互いが織りなして暮らす、この人間関係の基盤をどう受け止め、継いでいくかは、移住者など地域にとって異質な新しい力を、今後、町村がどう受け入れるか試されることにもつながる。

身近さの安らぎ

山梨県小菅村は人口700人の絵に描いたような小規模町村である。多摩川の源流域にあり、村域の95%は森林で、その3割は東京都の水源涵養林となっている。

20年も前のことだが、村の高齢者生活福祉センター「きぼうの館」を訪ねた時のことが今も忘れられない。十数人の高齢者がヘルパーの女性たちと、床に広げた大きな小菅村の手づくり地図を囲んでゲームに興じていた。昔から知り合いのお年寄りは互いに打ちとけ、若いころの活躍ぶりを知っているヘルパーたちは高齢者を敬い、お互いを名前で呼び合い、笑いが絶えない。大都市の高齢者施設では実現しづらい安らぎの場を垣間見た思いがした。

6年前、木材を多用した新しい役場が完成した。そのすぐ後ろが、生徒数33人の小菅小学校だ。子どもたちは役場の横をとおって通うので、村職員はほとんどの子どもの顔と名前を覚えることになる。普通であれば複式学級の規模だが、足りない教員は村が費用を負担して、一学年一教員で学年ごとのクラスにしている。小規模校では人間関係が広がらない、できるスポーツが限られるなど、難点が挙げられる。しかし「子どもは村の宝」と、村内の森や川での自然体験活動や伝承されてきた太鼓の指導など、村民が積極的に学校行事に関わり、子どもたちも村の中で生き生きと育っている。

村が募集してきた地域おこし協力隊も多方面で活躍している。これまでに36人が募集に応じて来村し、14人が村内に定住、8人が現役で活動している。小さな村だけに協力隊の存在価値も大きく、観光や福祉などさまざまな場面で村を支えている。

村全体がホテルという構想で始まった古民家ホテルは2軒が営業を開始し、やや高額な宿泊費にもかかわらず予約がとりにくいほど人気が高い。施設も魅力的だがそれ以上に、村を熟知した役場OBらが案内人となり、宿泊者と村人をつないでくれるのがもうひとつの楽しみとなっている。

小規模な村ゆえに、住民の一人ひとりがそれぞれの役割を果たしながら活躍する地域社会がここでは形成されている。小学生の子どもも、学校生活の中で一人何役もの役割をこなしている。お年寄りも子どもも、それぞれに出番と役割、居場所があり、いかに地域の担い手となるかが住民の間で共有されている。小さな村ならではの、身近さと安らぎを体現した施設運営、それに関わる関係者の意識改革、住民の参画、外部人材を通じた地域外との連携、この村づくりの展開から学ぶことは多い。

山梨県小菅村の中心集落

▲山梨県小菅村の中心集落

歴史と文化が息づく集落

人びとの日常生活の場である集落が、現在も機能しているのも町村の大きな特徴である。

諏訪湖から流れ出る天竜川沿いは深い渓谷と森林が続き、険しい自然環境の中に多くの集落が点在する。この地域は諏訪湖から南下し、紀伊山地、四国山地、阿蘇山地へとつながる中央構造線の基点となる地域である。この断層は河谷を連続的に発生させ、それが自然と道になり、縄文、弥生時代以来、多くの人や物、情報が流入する基幹的なルートを形成した。愛知県豊根村の花祭りや長野県泰阜村の念仏踊りや田楽など、このルートを通じて都から伝えられたこれらの伝統芸能は、現在も各集落で象徴的な価値として受け継がれている。

福島県会津盆地のほぼ中心部に、特産の米が評判となった湯川村がある。この村には長く東北で唯一であった国宝の仏像が存在する。村内の勝常寺にある平安初期の薬師三尊像である。中尊の薬師如来坐像、両脇侍像の日光・月光菩薩像が国宝、他に十一面観音立像など9体の国指定重文がある。明治初期の廃仏毀釈の際には、これらの仏像が破壊されるのを免れるため、勝常の集落住民は仏像を各家の床下や田んぼに隠して守った。まさに9世紀初頭から、この村の宝である仏とともに千数百年の歴史を生きてきた集落が存在している。現在、寺への旧参道沿いに残る蔵などを再生し、まちづくりにつなげたいという住民の取組も続く。

山形県小国町の町史には、上杉家文書である『邑鏡』(文禄4(1595)年)からとった小国町の集落地図が記載されている。そこには現在100余ある小国町の集落はほとんどが記されている。巨大な武家集団であった上杉家が、米沢周辺の農山村に武士を分散させたともいわれるが、地図上に集落名と戸数が明記されていることからみても、4百数十年前にはこれらの集落経営がすでになされていたことが分かる。越後から米沢に至る町内の黒沢峠も、地図に明記されている。この峠の敷石道は1mも土に覆われていたが、黒沢集落の有志により、40年前、5年をかけて掘り起こし復元された。イサベラ・バードも通ったこの峠に光を当てようとする住民の活動もある。

これらはほんの一例であるが、日本の集落は永い歴史的蓄積をもち、地域固有の文化を集落単位で育んできた。それぞれの集落にはかつての歴史的記憶が地層のように積み重なっている。

歴史性だけではない。四季折々に変化する日本の自然は、微細であり高い生物性をもち、多種多様な動植物が存在する。その自然を最大限に活用した農林漁業と、それを基盤としたさまざまな生業が営まれてきた。後は野となれ山となれと放置された荒野ではなく、その多くは集落の人びとが手を掛けてきた人文性の高い自然である。

山形県小囲町・黒沢峠の敷石道

▲山形県小国町・黒沢峠の敷石道

集落からの思考

簡単に「ムラじまい」という前に、このような歴史的経緯をもち、維持することの意義をもつ集落に着眼し、そこを基点にしたまちづくりをもう一度丹念に行うことも、町村の取組として欠かせない。

今、町村にとって、最大の課題はなんといっても人口減少問題だ。しかし人口規模の少ない町村で、同世代の若い移住者を急拡大しても、それは住宅不足、保育所問題、20~30年後の高齢化をもたらすことにつながる。世代間のバランスの取れた人口構成を、どう維持拡大するかが課題となる。しかし一般住民にとって、県や市町村の将来人口などは、ほとんど関心がない。だが集落や字単位で、詳細に各戸の現況や家族構成、子息の状況などを話し合えば、10年後、20年後にこの集落はどうなるかという危機感が、我がごととして認識される。詳しくは『町村週報』3167号(2021年7月26日)コラム欄に記したので参考にしていただきたい。

もう一点、集落に基点を置くことで、より詳細に実態が分かり、具体的に取組の方向が見いだせることがある。それは地域経済の状況と将来への方策であろう。

高知県西部の旧西土佐村大宮地区は、135戸240人、高齢化率50%を超え、ここ40年間で人口が半減した集落である。2005年にJAの出張所閉鎖が決まり、ガソリンスタンドとミニ店舗も廃止という状況を迎えた。しかし高齢者にとって冬季の灯油や食糧品の確保のため、それらを維持することは急務で、住民の約8割が出資し㈱大宮産業を設立し、その経営を引き継いだ。住民も積極的に利用し、灯油や商品の配達の際には高齢者の見守りをするなど経営も軌道に乗ってきた。評判のいい大宮米や長ナスの地域外への販売にも力を入れ、県内大学生との交流、土曜夜市などイベント開催にも取り組んだ。

地域経済の振興は突き詰めれば、特産品販売やツーリズム、協働人口拡大などの“地域内流入の最大化”、そして地産地消や暮らし方の見直しなど“地域内消費の拡大”といえる。高齢化の進んだ135戸の大宮地区住民はその収入の多くを年金に頼る。住民のための株式会社を設立し、地域内流入、地域内消費をすすめ、何とかお金が循環する仕組みをつくった。しかし高齢化で毎年10名近くが亡くなり、そのお葬式はすべて地区外で100万円から150万円を掛けて行われる。つまり1、000万円から1、500万円が毎年、地区外へ流出することが分かった。それ以上に昔からの知り合いが最後のお別れに行けない。そこで地区では空いた保育所を改装して葬祭ができるようにし、“地域外流出の最少化”にも取り組んでいる。

県や市レベルでは、地域内流入や地域内消費、地域外流出は具体的には掴みかねない。町村を構成する集落レベルで、住民の暮らしに添った地域経済の実態を把握することから、地域づくりの方策も明確にすることができる。

ドイツ生まれの経済学者E.F.シューマッハーは『スモール イズ ビューティフル』(1973年)で、人間の顔をもった技術、中間技術の重要性につき「技術開発には新しい方向が必要だ。その方向とは人が真に必要とし、人間と等身大のものであろう。人間は小さい、だから小さきものこそ美しい」と述べている。人の暮らしを基点にした、小さい地域こそ美しいと考えたい。

岡崎氏の写真です岡﨑 昌之(おかざき まさゆき)

1945年、岡山市生まれ。早稲田大学政治経済学部経済学科卒業。㈶日本地域開発センター企画調査部長を経て、福井県立大学経済学部・大学院経済経営学研究科教授、法政大学現代福祉学部・大学院人間社会研究科教授、放送大学客員教授、自治体学会代表運営委員、国土審議会政策部会専門委員、観光政策審議会専門委員他などを歴任。法政大学名誉教授。専門は地域経営論、コミュニティ政策論。地域づくり団体全国協議会会長、全国過疎地域連盟過疎地域振興調査研究会委員長、全国町村会「町村に関する研究会」委員、福島県地域創生人口減少対策有識者会議座長など。
著書に『まちづくり再考』(ぎょうせい、2020.1)、『地域は消えない』(日本経済評論社)編著、『地域経営』(放送大学)他。