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長生きと平穏死

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年3月9日

東京大学名誉教授  大森 彌(第3032号・平成30年3月5日)

日本人の平均寿命は、国が統計を取り始めた1947年は男性50.06歳、女性53.96歳であったが、右肩上がりで伸び続け、2016年には男性80.98 歳、女性87.14歳になっている。厚労省が2017年9月15日に発表した100歳以上の高齢者は全国に6万7,824人で、その大半は女性で、5万9,627人と87.9%を占めている。いまや人生80年、90年が当たり前になった。

しかし、長生きが「めでたい」といえるかどうか別問題である。作家の佐藤愛子さんの『九十歳。何がめでたい』(2016年、小学館)は2017年にミリオンセラーになったが、そこでは「ああ、長生きするということは、全く面倒くさいことだ。耳だけじゃない。眼も悪い。終始、涙が滲み出て目尻目頭のジクジクが止まらない。膝から時々力が抜けてよろめく。脳ミソも減ってきた。そのうち歯も抜けるだろう。なのに私はまだ生きている。」と嘆いている。

健康でありたいと切望していても寄る年波には勝てない。老いて、足腰などが弱り、癌を患い、あるいは認知症を発症し、不安と苦痛の終末期を送っている人は少なくない。それでも、事故死や「自死(自殺)」でなければ寿命が尽きるまで生き続ける。今、その最期の生き方、すなわち死に方が問われている。

人生の終末期のあり方をめぐり、医療現場などで「望ましい最期」を模索する動きが起こっている。人工呼吸器や胃ろうなどの延命措置がかえって患者を苦しめ、患者の尊厳を損なうことがあると考えられるようになったからである。基本的には本人の意思決定を支援し尊重するケアを提供しよういう考え方である。

医療や介護のサービス現場では、本人の「生の質」(Quality of Life)の確保が大切と言われてきたが、死期が迫った時には、自宅でも施設でも「死の質」(Quality of Death/Dying)の実現こそが大切ではないかというのである。

死への怖れ、別れの寂しさ、残される家族への心配などを取り除き、安らかに死を迎えることができる、そういう生の終わり方である。

長命時代においてこそ平穏のうちに看取り、看取られる最期が望ましいといえるかも知れない。それを可能にするためには、すべての高齢者が生前に発効する遺言状を作成し、病床でも自分の意思を周辺の人に伝えておく必要がある。これを全国の地域において当たり前の人生作法としたいものだと思う。