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しあわせ

印刷用ページを表示する 掲載日:2006年7月3日

エッセイスト 山本 兼太郎 (第2566号・平成18年7月3日)

友人の息子のA君、30歳に近いというのに、また仕事を変えたいと相談に来た。これで3回目だという。例によって人間関係がどうのこうのとか、いつになったら幸せが・・・などといっていた。あまりに幸せ、幸せとこだわるので、亡くなった作家の堀田善衛さんの話を思い出した。堀田さんといえば、平成10年に日本芸術院賞をもらっている人である。

以前にも書いたことで恐縮だが、その堀田さ んが、スペインに居を移して、仕事をしておられたときのことである。親しくしていたスペインのギター奏者に、街でばったり出会うと、これが大変な御機嫌で、いきなり抱きついてきた。理由を聞くと注文しておいたギターが17年目にできてきた。こんな嬉しいことはない、ぜひ1杯おごらせてくれ、という。 

堀田さんが「17年もかかったのか?」と驚いていると、実はギターづくりの職人の方では、はじめ25年はかかるといっていた。それがあまり急がせるので、8年も早めて17年で作ってくれたんだ。素晴らしいことではないかと大感激である。聞いてみると、1つのことに20年ぐらいの歳月をかける職人が、西欧には、ほかにもまだまだ大勢いるという。

堀田さんは、この話を聞いて感動した。なっとくのいくまで、しっかりと時間をかける職人たちの心の中にあるであろう大きな満足感、仕合わせ感を思って、堀田さん自身もまた、心の奥深いところで、しみじみと仕合わせ感に満たされた、というのである。

「幸福」などという角ばった言葉を使うと、お金の多い少ないことと関係が出て来そうなので、「仕合わせ」という古い日本語を使った、と堀田さんは書いておられた。

さて、A君、幸福、幸福といって職業を転々としたが、君は、この話をどう思うかね、と聞くと、彼は大きなため息を1つすると、よく考えて返事をしますといって帰っていったが、まだ返事はない。