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時間のゆとり

印刷用ページを表示する 掲載日:2004年7月12日

エッセイスト 山本 兼太郎 (第2486号・平成16年7月12日)

映画評論家の淀川長治さんが、映画についても、たいへん造詣の深い「鬼平」作家の池波正太郎さんと、初めて対談することになった。2人とも故人になったが、そのころは、「超」の字がつくほどの多忙さだったので、時間には厳しい。淀川さんはまた、人を待たせるのが大嫌いという几帳面な人である。約束の時間の15分前に、対談場所に行って驚いた。池波さんの方が、それよりもさらに15分も前から、対談の席に静かに座っていたからである。2人は顔を見合わせて大笑い。以後大の仲良しになったという。

以前に「どのような人をもっとも羨ましいと思うか」という調査があった。結果は大金持ちでもなければ、社会的に名声を得ている人でもなかった。「自由な時間を十分持つことのできる人」というものだった。しかも、20歳から40歳の男性にもっとも多かったという。

のんびりと無責任に毎日を過ごしていた若者時代も過ぎて、就職し家庭を持ち、社会的にも責任を持ち、働き盛りの年代になると、時間の厳しさが、身にしみてくるのだろう。

時間というものは不思議なものだ。貧富老若の区別なく、誰でも公平に一日に24時間が与えられていて、貸すことも借りることもできない。そして、過ぎ去った時間は、決してかえってこない―競争の厳しいアメリカのセールスマンの、手帳の隅に書き残してあった言葉だという。われわれは、このような時間の中に生きているというわけである。

毎日の仕事の中で、少しでも時間のゆとりをつくることを考えた人がいた。1日の仕事が終わったあとの30分か1時間を、翌日の仕事の段取りを考えて、メモをすることにした。明日の24時間のために、今日の1時間を加えるというわけである。

さきの淀川さん、池波さんの話ではないが、多忙な人ほど時間のつくり方が上手である。そのうえ、相手の時間を尊重して、迷惑のかからぬ気配りを忘れてはいないのである。