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落葉

印刷用ページを表示する 掲載日:2003年11月17日

エッセイスト 山本 兼太郎 

「うらを見せおもてを見せてちるもみじ」は、良寛の句である。日に照らされる紅葉には、花では味わうことのできない華麗さがある。人は華やかなもの、立派なもので表面を飾りたがるが、表も裏も、建て前も本音も、すべてを見せて紅葉は散っていく。

良寛は晩年、腸を患ってか、糞便の汚れの中で死んでいった。そうしたなかで、そば近く仕えていた貞心尼の歌にこたえた一句だともいわれている。人間としての悲惨と高貴が表裏となって宙にまう思いをさせられる。

「落葉の美学は別離のドラマである」といった人がいる。

秋の静かな午後など、大ぶりな桐の枯葉が一枚、風もないのに枝をはなれて落ちてくる。色鮮やかな紅葉とは違ったおもむきがある。「桐一葉落ちて天下の秋を知る」というのは、中国の古い言葉である。ふと一枚の枯葉が落ちるのを見ることで秋を感じとる。人生などの凋落の前兆を知るということにも使われたりする。

免疫学者の多田富雄さんによると、葉が落ちるのは、風が吹いたからでも、目方が重くなったからでもない。葉の付け根にある細胞が、秋という季節の気配を察知すると、かねて組み込まれている遺伝子のプログラムが働いて、みずから死んでゆき、そして枯葉となって落ちてくる。

樹木が生命を維持して、生きつづけていく裏側では、このような、ひっそりとした死が必要とされている。考えてみれば、落葉がなければ、次の年に春が来ても、若葉が生えてくることができない。何億年もの昔から、季節ごとに繰り返される季節の別離のドラマである。

「じゃ又ね山川くるり桐一葉」は上甲平谷さんの名句である。風もないのに桐の枯葉が、ふと枝をはなれて、くるりと一回転して落ちる。地上までの一回転の中に凝縮された人生を読みとることができる。