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越県合併に思うこと

印刷用ページを表示する 掲載日:2005年1月17日

エッセイスト・画家 玉村 豊男 (第2505号・平成17年1月17日)

長野県は合併問題で混乱を繰り返している。とりわけ山口村の岐阜県中津川市への越県合併の問題では、議会と知事の対立の構図があらわになった。

もとはといえば、理念なき「平成の大合併」そのものが元凶であることはいうまでもない。きたるべき道州制への道筋も示さず、長年積み上げてきた広域行政の取組みも無視し、越県飛び地なんでもあり、とにかく自治体の数だけ減らせばそれでよしと、アメとムチで町村を恫喝するに等しい国の政策は、将来に禍根を残すこと間違いない。

その意味では、田中長野県知事が寒村僻地の自立を応援し、信州が誇る文豪島崎藤村の生地である馬篭地区を長野県の枠組みの中に留めておきたいと願う心情はよくわかるのだが、いかんせん反旗を翻すのが遅すぎた。行政が主導して進めてきた合併を、その長があとになってひっくり返そうとするのでは、混乱するのは現場の村民だけだろう。

この問題は、正月休み明けに至ってついに知事が折れるかたちで決着したが、合併をめぐる根本の問題はなにひとつ解決されていない。このままでは、全国いたるところで大小いびつな自治体が併存して錯綜した輪郭線を描くことになるだろう。

私が住む長野県東御市は、「東」部町と北「御」牧村が合併したため旧町村名を足して2 で割った市名になった。想像力のかけらもない命名である。もっとも東部町という名も以前の合併でそれぞれの旧名の使用を主張する4町村の折り合いがつかず、それまで慣用的に使用してきた「東部4 ヵ町村」という行政上の分類名に落ち着いたという経緯がある。

こんなふうに合併が繰り返されて折衷案ばかりが新名称として採用されていくと、いずれは歴史にもとづいた由緒ある地名が交じり合いながら消滅し、その土地がつくりあげてきた暮しのイメージそのものが次代に伝わらなくなってしまうだろう。