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花眼

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年1月23日

読売新聞東京本社論説委員・コラム『編集手帳』執筆者 竹内 政明
(第2786号・平成24年1月23日)

レンズの度が合わなくなり、眼鏡をツルごと新調した。会う人に、「老眼ですか?」と聞かれる。「いいえ、カガンです」と答える。それ以上は説明もしないので、相手は怪訝(けげん)な顔をしている。

花眼。漢和辞典によれば、「目がくらみ、ぼんやりすること」、転じて、老眼を意味するという。美しい語感と字面が気に入り、我流の言い換え語として使っている。加齢とともに霞(かす)むようになった目を、古人がいかなる心で花にたとえたのかは寡聞にして知らない。

目のほうが頼りなくなると、足の運びもノロくなる。自宅から駅までの通い慣れた道すがら、それまでは気づかなかった生け垣の花に目が向くのも最近のことである。視力が衰えてきたおかげで見えてくる花もある。……と、そのあたりを「花眼」の語源として唱えてみたいところだが、いかがだろう。

どんでん返しの名手として日本でも人気の高い米国の推理作家ジェフリー・ディーヴァーの『エンプティー・チェア』を読んでいて、心ひかれた一節がある。主人公の犯罪学者が言う。人間には二種類ある、と。

〈到着する人間と、旅する人間だ〉

脇目もふらずに目的地へひた走る人間と、移動の過程をゆっくり楽しむ人間、そう言い換えることもできる。目的地が功名であれ、財利であれ、「到着する人間」はほかの人よりも早く、かつ遠くまで行き着くことができるのは確かだが、道端の花や車窓の風景に心をときめかす余裕はあるまい。花眼は否応(いやおう)もなく、人を「旅する人間」に変えてくれる。

昨年、ブータン国王の来日を契機に広く知られるようになった国民総生産(GNP)ならぬ国民総幸福量(GNH)という考え方も、ディーヴァー流に言うならば、「到着する」派から「旅する」派へ、変身の勧めと言えそうである。

「目が利かなくなって、さぞかしご不自由でしょう?」と聞かれることもある。「いいえ、感謝しています」と答えると、ますます怪訝な顔をされる。