コモンズ代表・ジャーナリスト 大江 正章 (第2817号・平成24年10月22日)
各地で稲刈りが最盛期を迎えている。今年はおおむね豊作のようだ。知り合いの埼玉県の農家は、「有機農業を始めて41年で、いちばん出来がよい」と語っていた。
ぼくが仲間と茨城県の筑波山麓で耕している田んぼ(2枚で36アール)では、9月22日に約20人で稲刈りを行った。四角を手刈りし、大半はバインダーで刈っていく。毎年思うことだが、 刈った稲が結ばれて出てくるこの機械は本当にすぐれものだ。なかば素人にとって、稲を鎌で刈るより、藁やひもで結ぶほうが手間がかかる。ある段階までの機械化は、 きつい労働を楽にしたと実感する。
3月末に播き床をつくり、翌週に種播きをしてから、およそ半年。楽しい田植えや、大汗をかいた草取りの日々を思い浮かべながら、みんなの協業で稲架を作り、稲を運び、架けていく。 稲刈りというけれど、コンバインを使わないかぎり、こうした「刈る」以外の作業のほうがずっと時間がかかる。それは誰でもできるし、人数が多いほど早く終わる。 子どもも老人も障がい者も出番があるし、初めての人も参加できる。作業しながら会話もはずむ。機械化された近代農業とは大きく異なる一面だ。
夕日を背景に、長く延びた稲架の姿は実に美しい。まさに日本の原風景だ。その一端を自分も担っている。そう考えると、なんだか誇らしい。効率だけを求めない農業があってこそ、 人を感動させる風景が生まれる。
そして、また1年間、天日乾燥の美味しい、自作のコシヒカリが食べられると思うと心底うれしいし、ほっとする。農薬も化学肥料もまったく使っていないので、 安心して誰にでもお裾分けできる。もちろん、土も環境も持続可能である。
一週間後に脱穀。反収は6俵程度だった。大半が首都圏居住者の週末農業としては上々だろう。収量だけをめざしているわけではないが、もちろん豊作にこしたことはない。 この田んぼで耕すかぎり、ぼくの食生活は食糧危機とは無縁である。こうした小さい農業こそが本当に強い農業なのだ。