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水穂の国の昨今

印刷用ページを表示する 掲載日:2000年6月19日

東京大学名誉教授 西川 治 (第2319号・平成12年6月19日)

触らぬ神に祟(たた)りなし。ただし崇(あが)めるのであれば、まずは心身の汚(けが)れを祓わねばならぬ。

『古事記』の昔、天照大御神は御子の天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)に豊葦原の水穂国を治めるようおおせられた。ところが、葦原中国(なかつくに)には千早振る荒ぶる国の神が大勢いることが分かり、八百万の神々と相談して、別の神を遣わしたが、三年の間何の音沙汰もなかった。その次に天降らせた神も八年間何も復奏しなかった。いずれも大国主神に籠絡されたのだが、居心地もよかったにちがいない。

情報技術がめざましく発達した今日でも、高天原の御意向は伺いがたい。察するに、何やら、“悪し原の迂闊国”は、「神の国」の直言直後いたく騒々しいので、今度はいかなる神を遣わすべきかと、さぞや思金神をはじめとして、思案にくれていることであろう。

一方、古事記よりもずっと昔に、大陸の外つ国では、子貢が士人の資格について訊ねたところ、孔子はおよそ次のように答えた。「まず士といえる人物とは、自分の行為に恥を知り、四方に使いして君命を辱しめない者。その次は、宗族からは孝行者と、郷党からは悌順といわれる人である。あえてその次をあげれば、言は必らず信、行は必らず果断、ただしそれはこちこちの小人だが、」と評された。

さらに子貢は問うた。「今の政に従う者はいかん」と。子は言われた。「あゝ、斗■(としょう)の人、なんぞ算(かぞ)うるに足らん」と。(論語巻第七、子路第十三)。■は一斗二升入る竹製のめしびつ、斗■とは心のせまい小人物のたとえである。この問答の少し後に周知の対句が見られる。「子の曰く、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」と。(■は「竹かんむりに肖)

また、巧言令色の時節がやってくる。

世に誤解の種はつきないが、大八洲では暗黙の了解を好む気風もあれば、危言を重んじ互解を嫌う危風もある。「わが欲(ほ)りし雨は降り来ぬかくしあらば、言挙(ことあげ)せずとも年は榮えむ」(万葉集四、一二四番)。