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旧山古志村の復興に思う

印刷用ページを表示する 掲載日:2010年7月19日

早稲田大学教授 宮口 侗廸  (第2727号・平成22年7月19日)

6月中旬、復興の進んだ長岡市山古志地域を5年ぶりに訪れた。あの地震の半年後、復興の工事が本格的に始まったころ以来の再訪である。当時はまだ道路は寸断されており、限られた場所にのみご案内いただいたが、飴のように折れ曲がった太い鉄骨の牛舎や水没した集落など、被害のすさまじさに身もすくんだ。  

筆者は不勉強にして、あの地震で注目を浴びるまで、山古志村がいかに際立った存在であるかを知らなかった。あらためて2万5千分の1の地形図を見ると、そこには、他に類を見ないほどおびただしい数の池が書き込まれている。これこそ山古志が発祥の地といわれる錦鯉の池であり、棚田ならぬ棚池と呼ばれる。

山古志の山は土質が柔らかく、横穴を掘ると水が得られ、谷川のない斜面でも、頑張れば棚田をつくることができた。4メートルの豪雪地帯でも、米さえつくれれば生活は安定する。人の頑張りによって集落のはるか上にまで棚田がつくられ、その結果、地理学者の勘からすると、複雑な地形の山村にしては、家の数も多い。そして棚田に水を供給するための池で鯉が飼われ、そこにすばらしい錦鯉が育ったために、棚田の一部も棚池となった。人の手仕事を映し出す稀有な風景がこのように生まれ、そしていま見事に復活した。

その後養殖を再開した専業の鯉屋さんは30戸ほどであるが、趣味的に飼っている人の方がはるかに多い。どんな模様の鯉が生まれるかというわくわく感がたまらないのだという。国の重要無形民俗文化財である「牛の角突き」も、ひたすら楽しみのために飼ってきた牛によるものである。地震の後も、牛小屋に残してきた牛に草をやるためにひそかに往復した人たちがいたらしい。

筆者は、深い雪国で米をつくり、牛と鯉を育ててきたこの村の人たちの土地への愛着は、想像を絶するものだったのではないかと思う。家屋の全壊数知れぬ村に6割以上の人たちが戻った。水没して高台に移り、真新しい家が立ち並んだ地区もある。棚田と棚池の美しい風景に見とれつつ、愛しい土地を丁寧に使うくらしがよみがえったことを、何よりも寿ぎたいと思った。