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まだまだ集落は生きている

印刷用ページを表示する 掲載日:2008年2月25日

早稲田大学教授 宮口 侗廸  (第2631号・平成20年2月25日)

集落は生き物である。戸数や人口、高齢化率といった数値だけでは到底その価値は測れない。そこには人と人のつき合いの蓄積があり、さまざまな生きるワザの継承がある。

その集落のありように対して、最近、限界集落という言葉が多用されるようになったことに、いささか問題を感じている。おそらくは2年後に失効する過疎法のその後のあり方にも関連して、マスコミにも頻繁に登場するようになったものと思われる。四文字熟語はズバリ感があって、マスコミ受けしやすい面もあろう。

一般には、高齢化率が50%を超え、戸数20戸以下の集落が限界集落と言われている。過疎町村等においてこのような集落がすでに相当の数に上ることを把握することによって、地方とくに農山村がいかに厳しい状況にあるかをアピールするためには、限界集落という表現は大きく役立つであろう。そしてまた、このような集落に何らかの公的な支援が必要なことも当然である。

しかし筆者は、集落という人間生活の単位地域社会を単純な指標で決めつけ、他と区別してマイナスイメージのレッテルを貼ることはいかがなものかと考える。地域を何らかのものさしで区分し、公的な支援を行うために線引きすることは必要であり、従来の過疎法も、市町村を人口減少率等の人口指標と財政力指数で線引きしてきた。しかし集落は、蓄積された人と人、人と土地の有機的な結びつきそのものであって、そこには単なる数値を超えた価値が存在する。

内山節さんは結城登美雄さんとの対談で、群馬県の上野村の集落で7人の一人暮らしの高齢者が、毎日順繰りに各家に集まって晩御飯を食べる、楽しい日々があることを紹介しているが(『現代農業』2月増刊)、そこには少数社会の豊かさが息づいている。集落を限界集落か否かで分類するのではなく、価値ある中身を知り、さらに近くの集落を含めた新しい支え合いで集落の命を守り、万やむをえない場合にはしっかり看取ることこそ、自治体の責務であろう。