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定常経済での生き方

印刷用ページを表示する 掲載日:2001年11月5日

評論家 草柳大蔵(第2376号・平成13年11月5日) 

現金なもので、アメリカでビンラディン一派による同時多発テロが起り、先行き不安によるシュリンク(尻込み)が世界じゅうに拡がると景気の話・経済の話をマス・メディアがあまり取り上げなくなった。取り上げても、聞かなくてもわかる不景気な話ばかりである。

江戸時代は定常経済(成長率ゼロ)の年がしばしばあったが、そんなときは武士の勤務時間は1日5時間。当然、暇をもてあまして道楽を始めた。第1は園芸、第2は釣り、第3は学問である。京都に神沢貞観という与力がいたが、40歳まで与力を勤めた後、娘婿に家督を譲ってボランティアになる。元の職場にたくさんの事件の資料が詰まっているのでここへ資料整理に入った。意外な心中事件や人間業とは思えない殺人事件を拾いあつめて、適当な量のところで1冊に綴じ合わせ「翁草」と題して積み重ねたら200冊になった。後年、作家の森鴎外がこの文集を読破し、名作『高瀬舟』にまとめあげた。

そうかと思えば、50歳の農民が伊藤東涯という屈指の儒学者の門下生になり、東涯から教わったことを克明に「日記」につけたが、その日記の余白に「学問とはこんなに面白いものか。努力をしてやるものだと聞かされてきたがそうではないんだな。こんなに面白いものだから学者なんか出てくるんだな」と書きつけている。

このほか、定常経済の社会でも武士の俸給は変らず勤務時間だけ減ったから、暇をもてあました武士は参覲交代で江戸に来ている間に文化を身につけようと、清元の師匠の門を潜った。ところが清元は長くてなかなか覚えられない。そこで、さわりのところをかいつまんで稽古してもらった。これが「小唄」の始まりで、赤穂浪士の間には堀部安兵衛、大高源吾など風流人が多かった。

こう考えると定常経済社会も捨てたものではない。不足ばかり言っていないで、郷土史の勉強でも始めてはどうだろう。