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「ふるさとの顔」づくり

印刷用ページを表示する 掲載日:1999年6月7日

評論家 草柳大蔵(第2275号・平成11年6月7日) 

欧州の田舎を歩いてみると、人口1,000人以下の小さな町や村が到るところにある。べつに温泉が出るわけでもないし観光名所や行事を抱えているわけでもない。何の変哲もない町村だが、それではいま日本でハヤリの町村合併をすすめる気運でもあるかといえば、そんなものは薬にしたくても見られない。町の名前、村の由来、そういうものに誇りを持っていて、町村合併で財政規模が大きくなり福祉の向上が期待できるのではないかと水をむけても、「それは政治の問題であって、生活という文化の問題とゴッチャにしないでくれ」とニベもない答が返ってくる。どうやら「ふるさと」への愛着心と誇りが言わせているようだ。

日本人の「ふるさと」愛好度も似たり寄ったりではないだろうか。NHKの放送文化研究所がときどき「私の好きな歌」「後世に残したい歌」を調査するが、毎度、「ふるさと」がベスト3の中に入ってくる。長野オリンピックのフィナーレで歌われたのも「ふるさと」だった。大森彌東大教授は「私が加わっている地方分権推進委員会も合併の住民投票を検討しているが、住民投票になれば余程のことがない限り合併は実現しないだろう。住民は現状に愛着を感じ、合併の必然性を感じないからだ」と語っている(日経新聞・5・12)。

私は、住民が「現状に愛着を感じ」ているのは、郷土愛やふるさと意識のほかに、「住めば都」の生活環境への慣れ、あるいは職業上の理由によるものが多いと思う。それだけに大きな変更は望まないし、近頃の日本人は60歳までは「公情報」に無関心だという調査もあるので、高齢者介護やごみ処理を過不足なく処理するには、広域連合による目的別解決と町村合併による解決と、どちらがメリットがあるか、住民の負担はどうなるか、解決力はどちらがすぐれているか等を、比較し得るかぎりの一覧表を作って、「ふるさとの新しい顔」を紹介すべきだと思う。さもないと、住民ぬきの合併劇は悲劇に終わりかねない。