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償い

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年12月15日

九州大学大学院法学研究院教授 木佐 茂男(第2902号・平成26年12月15日)

最近、弁護士として法律相談を受けた際に、今では教科書にも載っているさだまさしの曲「償い」のことを話す機会が増えた。刑事事件の裁判長が、暴行して被害者を死亡させた被告人の少年に対して、 閉廷の間際に、歌詞だけでも読みなさい、と言ったという有名な話も添えてである。このようなアドバイスは、法律的というよりも、心理面での相談に近い。

シルバー世代に入った方々から私に両面の相談がある。例えば自己破産による債務免除の後の話である。一方では、破産をして法律上では債務を免除されたが、 お世話になった人に本当に「償い」の気持ちがあることを分かっていただける方策はないのかという相談ケース。他方では、 20年も前の交通事故の加害者が損害賠償債務を履行できないので自己破産してしまったけれど、せめて「償い」の気持ちを示してもらう手段はないかという相談。実は、 前者は破産者自身が連帯債務保証をした結果の犠牲者であり、後者は深夜の事故で、加害者も被害者もちょっとアルコールが入っていた可能性がある。現実には無理であったかもしれないが、 前者では連帯保証をしていなければ避けることができた、後者では乗車しないで加害者の運転を止めていれば死亡を回避できた可能性がある。

考えてみると、加害者・被害者の関係も相互に入れ替わることが珍しくない。悲惨な殺人事件や虐待事件について、われわれは、マスコミの情報で、罪を犯した者を一方的に加害者と決め込みがちである。 だが、彼らも、どこかの段階でそのような行為に至るしかない状況に追い込まれた被害者である側面もありはしないか。

一戸建ての民家の前に小さなマンションが建つと、前者は最初の日照被害者。しかし、その南側にさらに少し大きなマンションが建てば、最初のマンション住人・建設業者は被害者側に回る。さらに、 その南側に大型マンションが建てば・・・。被害者と加害者は一方向で連鎖する。逆に、見ず知らずの人との間で、さらに夫婦相互、兄弟相互、教師と生徒の間でも、加害者と被害者の関係はしばしば入れ替わる。

地方自治の領域で、自治体側からみて、自治体は善、国は悪のような構図での議論が多い。本当にそうなのか、もっと冷静にみていいのではないか。それも、法制度の正否、 誰のどのような執行・運用の正否も解明されないままの議論が続く。加害・被害関係が多少判明しても、「償い」は簡単に現金で済むわけではない。国、国民、自治体、住民、それぞれの義務や責任、 被害の内容、償い方は何か。制度化しか改善策はないのか、絡んだ糸をほぐす手立てを併せて思索する昨今である。