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議事録不存在が意味すること

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年3月19日

九州大学大学院法学研究院教授 木佐 茂男(第2793号・平成24年3月19日)

東日本大震災と原発事故が発生する前に、本欄で、「「組織としての記憶」力は?」と題して、日本の役所の組織的責任体制を問うたが(2010年6月14日付第2723号)、角度を変えた再論の機会が来た。原発事故から1年近くも経って、国の原子力災害対策本部の議事録ほか、震災・原発関係の15の会議体のうち10の会議が議事録不作成との報道である。議事概要すら未作成の会議体もあり、また、被災県の災害対策本部でも多数の会議録が未作成という。政府と官僚、経産省原子力安全・保安院、東電その他主要関係者の誰も記録を残すことに思いいたらなかったのであろうか。この事態を、説明責任の放棄とか政治主導の未熟として批判することは易しいが、果たしてそうなのか。

急場しのぎのにわか組織に忠誠を誓う官僚は少ないであろうから、録音機さえ思いつかなかったのかもしれない。そうであっても会議メモを完璧に取り、所属省に持ち帰るのは役人の習性である。録音媒体や会議メモさえ事後に十分出てこないとすれば、別の事情が考えられる。

昨今の政治的諸課題のほとんど全てが現政権の統治能力を問う形で論じられているが、もしもこれが旧政権下であればどうだったろうか。長い政権続投が権益志向で自己保身の官僚制や東電体質を作ってきたのではないか。

弁護士実務の経験から言えば、役所は、存在する公文書や議事録を、作成せず、とか、不存在として身体を張って主張し、逆に、作成すること自体がほとんどナンセンスな文書まで最上層部の決裁を経て残したりする。

一連の不存在報道と同一の文脈の中に、原発事故による「最悪のシナリオ」隠しも発覚した。推測の域を出ないが、一部ではあれ、不作成ではなく、公開を避けるための記録「不存在」もあろう。

ことは、政権党の政治家の無知識や無責任だけではなく、こうした実務に日々浸かって麻痺が進む職員(官僚)の意識劣化が怖い。ウソと誤魔化しと事実が混然一体化し、その場をしのぐ生き方に長けていく現状で、彼らが人間としての理性を失っていくのが悲しい。議事録不存在の意味はもっと掘り下げられてよい。