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沈黙の時代

印刷用ページを表示する 掲載日:2008年8月11日

九州大学大学院法学研究院教授 木佐 茂男(第2649号・平成20年8月11日)

『沈黙入門』という本がある。「もう語らない、怒らない、求めない」という。大新聞の大型の書籍広告欄で知った。今、ここでこの本の内容を批評しようというのではないが、タイトルとキーワードを見て一瞬、身震いがした。そうでなくてもモノ言えぬ時代になった。仕事柄、男女を問わずさまざまな世代、職業の方たち、さらに言えば、実に多様な生き方をさせられて来た方々と会うことも多い。

最近における格差社会のひどさは、本当に目に余るものがある。他方で、ありあまる資産をもって、実に悠々自適の人も少なくない。およそ私には生涯縁がないと思われるモノが売れ、縁のない店や場所が繁栄しているのを見ると、格差拡大には憤りを越すものがある。

こういう時代だからこそ、本来、高学歴の人々は、いっそう発言をすべきであろうが、今や、ほとんど沈黙実践の世界に入っている。周囲を見渡しても、社会や世間を対象とする沈黙に入門書などは不要に思える。「心静かに」ということが権力に対しての沈黙や社会の中での「ガマン」を求め、それで「落ち着きなさい」では困る。

今まで、私は全くと言っていいほど気づいていなかったが、なぜ、いつまでも、「桜花吹雪」や「印籠」で終わるテレビ番組が流行るのか最近やっとわかったような気がする。私が接する庶民の圧倒的多数は、裁判官→検察官→警察官→弁護士の順に正義を実現していると考えているようである。弁護士は、悪徳犯罪者の弁護をしてカネ儲けをするとんでもない職業であるという認識がきわめて強い。その結果、法律問題を抱えていることも気づかず、そして、気づいても弁護士に頼めば大損になると。加えて、「お上」尊重の意識はほとんど変わることがない。ほぼ、どの家庭にも法律問題がある。しかし、それは弁護士まで、いわんや裁判所まで届くことは稀である。法学部教員も含めて、いろいろな問題に対する沈黙は着実に深刻に進んでいる。