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季節感はどこへ行った?

印刷用ページを表示する 掲載日:2006年10月9日

九州大学大学院法学研究院教授 木佐 茂男 (第2576号・平成18年10月9日)

タクシーの運転手さんが、言っていた。「今年は、残暑がなかったですね」。九州に住む者にとって、確かに、ずっと猛暑が続き、台風がたった一つきただけで、突然秋になった。言われてみれば、残暑がすっ飛んだようである。

この夏、郷里で驚いたことに、田舎の子どもの「自然離れ」がある。小学校高学年でも、ちょっとした虫をこわがり、よく知った作物の品名も言えない。試しに、誰でも知っているような農作物の収穫期を聞いたら、賢そうな子なのに、ほとんど言えない。年中、同じ種類の野菜や果物が店頭にあるから、「旬」の時季を言えなくなってしまっている。すでに親の世代が、自然から離れた都市型通勤者になっていて、彼ら自身が自然に関する知識を持ち合わせなくなってきている。私の郷里を例にすれば、子どもの頃には、タマネギやジャガイモにも端境期があった。つまり、絶対にカレー・ライスを食べることのできない数か月があった。「端境期」など、死語になっているのかもしれない。

企業で「2007年問題」といわれ、団塊の世代の大量退職により、技術の伝承が難しくなっているというが、実は、地域では、すでに「自然」や「季節感」の世代間継承に失敗してきたのではないか。

都市と農村の交流の重要性が説かれる。私は、少しでも長期間、子供たちを四季折々に、「田舎暮らし」させることを願っている。子ども思いの親が付いてきてもよい。親子ごと、自然で洗脳する。できれば、幼少の頃から、「擬似故郷」を持って、一つの地域で四季のサイクルを全身と全脳で体感して欲しい。受験勉強よりも生きていく知恵の吸収が優先すると思う。

私自身、季節感(判断力、均衡感覚)を喪失している。この9月、やっと午前中に時間を作って、早く診断を受けようと思っていたクリニックに行ったら、シャッターが閉まっていた。しばらく理由が分からなかったが、近所の家に出ている日の丸を見て、秋分の日の休日と知った。そういえば、クリニックへの途上で、民家の玄関脇に白っぽい曼珠沙華が咲いていたから、気づいてよかったのに。