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「地方」に行く

印刷用ページを表示する 掲載日:2004年10月18日

九州大学大学院法学研究院教授 木佐 茂男 (第2496号・平成16年10月18日)

吉幾三氏の作詞作曲になるヒット曲に〈俺ら東京さ行ぐだ〉がある。「ハァ、テレビも無エ ラジオも無エ」で始まって「銭コア貯めて東京で牛(べこ)飼うだ」で一番は終わる。もう20年以上も前の歌だが、今もなお日本の現実を表現しているようである。

東京に住む著名人たちが、「週末は、仕事で地方に行きます。」と言うのをよく耳にする。私は、かつて地方分権改革論が始まりかけた頃、「東京も地方だ」と書いた。しかし、東京の人々にとって、東京は、「one of 地方s」でなく、「中央」であるようだ。

日本における「中央」と「地方」を比較すると、交通、文化、情報のいずれの分野をとってみても、全てが中央仕様であり、雲泥の差がある。特に、地方に提供される公共的サービスの低品質高価格には、クレームをつけたくなる。

地方に住む私の悩みは結構多い。私は、かなりの頻度で羽田空港を利用するお得意様なのだが、その搭乗待合室は出発ロビーから果てしなく遠く、さらに1階下におりて連絡バスに乗らなければ飛行機に乗れない。待ち時間を利用してノートパソコンを取り出しても、空港外れの待合室には通信用電波も届かない。地方から地方を往復するローカル飛行機は、チケットの割引対象外。当然、飲み物や新聞のサービスもなく、座席では縮こまっている。

このまま、市場解放が進んでいけば、サービス供給は、ますます東京ユーザー優先へと偏向するだろう。真の民主主義は朽ち果てて、数の民主主義で物事が決まる。 

特に今年は、河や森、山間の住家に甚大な被害をもたらす大雨や台風の多い年であった。自力で復興する蓄えも腕力も持たない人々にとって、スズメの涙のような見舞金では這い上がれまい。〈俺らこんな村嫌だァ〉と故郷を捨てる人々も増えるかもしれない。

世界第2位の経済大国ニッポンといわれて既に30年。その間、地方から人が減り、土地が荒廃していった。回転するカネの規模が、生活の豊かさや心の豊かさにつながらない日本。

もしも、東京を一地方として認識するならば、水資源や電力開発、廃棄物処理をはじめとする忌避施設の「地方」への押し付けと、三権を独り占めしていることの不合理と不自然さが見えてくるはずである。