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輝く実践を残す手法にも関心を

印刷用ページを表示する 掲載日:2003年2月24日

九州大学大学院法学研究院教授 木佐 茂男(第2429号・平成15年2月24日)

光栄にも歴史ある本紙の「閑話休題」の執筆を仰せつかることになった。最初であるから明るい話題から始めたいとも考えたが、ここは、時節柄、「地方自治業界」で最大の話題である市町村合併問題に触れざるを得ない。

今、「自主」から「強制」へと様相を変えつつある市町村合併には、納得のいかないことが多い。国は巨額の赤字の始末をし国家構造を根本的に変えようとしている。住民の声が出発点ではない。

スイスの基礎自治体の平均人口は2,500人。この国の実証研究は、参加がしやすく分権が進んでいるほど、住民が「幸せ感」を持っているという。現在のドイツでも、市町村の平均人口は6千人。電子自治体化が進んで広域合併は不必要となった。私は長年にわたりドイツの実務家や地方自治研究者に合併論があるかどうか聞いているが、誰も再度の合併論はないと言い切る。

これに対して日本。なぜにこれほど性急な合併が必要なのか。確かに、ある地域では7つの町に、それぞれ400名前後を収容する立派なコンサートホールはあるものの、一つとして百人規模の研修室がない。お互いに譲りあう真の広域行政体制がないのだ。合併を余儀なくされつつある農山村などでは、非民主的な「戻りたくない故郷」がある。形だけ都市化して人は戻ってくるのだろうか。地域も制度疲労を起こし、合併の引き金を自ら作った。

地域において真の統治能力がないことが、長く中央政治に利用されてきた。だが、合併という手段で幸せな社会が来るとは思えない。

現在主流の合併論の矛盾や不合理を指摘することは簡単である。しかし、現に強制的合併は進んでいる。吸収的な合併で大自治体の政策や条例が一律に適用されることには一考を要し、対等的な合併で「負担は低、給付は高」を採ってもいずれ財政破綻が来る。小さな自治体の優れた条例を残す手法開発も必要である。合併が仮に不可避の事態となったときに、小さな自治体の優れた政策、実践や条例を新自治体に残すため、考え行うべきことが山積している。