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熊野古道

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年3月2日

千葉市男女共同参画センター名誉館長・NHK番組キャスター 加賀美 幸子
(第2911号・平成27年3月2日)

「伊勢は七度、熊野は三度」という言葉がある。私も伊勢参宮は何度もしているが、熊野への思いはあっても、なかなか尋ねる機会がなかった。 今年1月「熊野学フォーラム」が東京で行われ参加したが、その関係でユネスコ世界遺産の熊野古道を取材で訪れた。

熊野への道は、伊勢路、小辺路、中辺路、大辺路とあるが、伊勢路から入った。思いがかない、やっと熊野古道を歩けるという期待で胸が高鳴ったのだが、 初めて見る深い樹木も大きな岩も足元の石も誠に自然で、その中にすっぽり包まれて歩いている自分を感じ不思議だった。昔から霊場と言われる熊野…でもどちらかというと、その昔、 私たちはこんな空気を吸っていたのではないか…そんな自然さを体で感じた。

その自然さに包まれたからか、普段から特別強いわけではないのに、なんだか足も軽く、神倉神社の538段も、続いて那智大社への長い道も年齢に負けず麓から登り切れた。

霊魂もこの地に集まっているとのことだから、後押ししてもらえたのかもしれない。そう思うのもやはり熊野ならではであろうか。その後、なぜか、歩くのが億劫でなくなり、 普段は電車やバスに頼っていた所も、軽々と歩ける自信ができたのは、何とありがたいことか、それがご利益かもしれない。

熊野詣は古くからあったが、人々が盛んに訪れるようになったのは平安中期。しかし、都から遠く隔たった熊野への旅は容易ではなく、約30回も熊野に御幸したという後白河法皇は、 落ち着かない源平争乱の中、熊野までなかなか行けなくなり、京都観音寺、今熊野をお詣りするようになったという。

その地は清少納言が仕えた中宮定子を葬むる鳥戸野陵が近くにあったため、清少納言は定子の御陵に詣でつつこの地で晩年を過ごしたとも言われている。 紀州熊野古道と京都今熊野…「古道」と「今」という言葉の響きに、今も惹きつけられるのである。