岩手大学農学部准教授 山本 信次(第2716号・平成22年3月15日)
我が国における森林と人間のかかわりを考えるとき、多くの人は森林が存在する地域である農山村住民と森林との関係を想像するだろう。農山村住民の多様な森林利用が多様な森林をかたちづくってきた里山の景観がその代表である。しかしながら、この理解は一面的でしかない。
キノコ・山菜の採取などは別として、木材はその長大さと重量から運搬に多大の労力を要するものであり、近世までの人工造林地帯は大阪・京都などの関西都市圏に隣接する吉野林業や江戸に直結する青梅林業といった大都市近郊に形成されるのが通例であった。また炭にしても、煙や火の粉が出ないといった炭の特性は狭い室内で火を用いざるを得ない都市生活者のための、まさに都市型燃料であり、軽さという運搬の容易性を活かして、人工造林地帯の背後の、これまた都市近郊で生産され、都市に搬入されたものであった。
このように林産物利用に着目すると、かつてはある地域にどのような森林が存在するかということは、農山村住民の生活のみならず、大消費地としての都市と強く関連していたのである。
こうした関係は第二次世界大戦後に急激に変化する。
第二次世界大戦後の木材生産偏重による急激な人工林増加は国内の原生的天然林や里山の減少を招き、生態系の多様性喪失の問題を生じさせたとして指弾されることが多い。さらには、こうした批判を受けつつも造成された人工林は手入れ不足となり、また人為による定期的な攪乱により生態系が維持されてきた里山も遷移の進行に伴い希少種の減少を招くなど、人間と森林の関係の希薄化が招く森林の荒廃も生じている。しかしながら世界的な森林破壊の状況から考えれば効率的な木材生産による自給率の向上も求められており、人工林の存在は重要である。
我が国の森林が抱える問題はこうした、時に相反する多様な課題を同時に解決しなければならないところに困難がある。これらの問題を戦後の人工林造成過程からもう一度考えてみたい。
戦後の人工林の造成過程は主として①第二次世界大戦時の乱伐跡地への造林、②燃料革命による経済価値の低下した雑木林・里山の林種転換、③奥地山岳の原生的天然林の林種転換に分けられよう。①については荒廃した国土の復旧に大きな役割を果たしており、その存在は重要である。②については、近代化の中での工業化や都市住民のライフスタイルの変化に農山村サイドが対応した結果であり、農林業関係者=農山村住民のみに責任を帰すことはできない。③については、紙パルプ産業技術革新による奥地天然林=未利用資源の原料化や国策としてのその利用推進という背景はありつつも、多くの場合国有林に存在した再生困難な原生的天然林の破壊を許容してしまった点で、林業技術者・林学関係者の責任が問われねばならないと考えるが、基本的には社会の近代化に対応したものであったことは②と同様である。
このように戦後の人工林造成は功罪半ばするものであった。
特に重要なのは主として②の問題である。すなわち日本の森林がたどってきた変化は、森林を直接的に利用してきた農山村住民と都市住民との関係の変化によってもたらされているということである。戦前までは木材・薪炭・有機農産物・山菜・薬品といった、森林を直接あるいは間接的に利用した多様な産品が農山村-都市間を流通することで、農山村住民が森林と多様な関係を築き、結果として人工林や雑木林などの多様な森林が存在していた。ところが戦後、復興期から高度経済成長期にかけての都市部の旺盛な木材需要と石油化学製品の流入が都市と農山村の関係を木材供給に一元化してしまっ た。それが農山村と森林の関係をモノカルチャー化させ、人工林造成が急速に広まった。その後、1960年の木材自由化が、木材供給という都市と農山村をつなぐ最後の糸を断ち切り、人工林の手入れすらままならないという今日の状況を生じさせたのである。今日、求められていることは「人間と森林の多様な関係」の再構築である。そしてそれは、都市と農山村の多様な関係すなわち「人間と人間の多様な関係」の再構築を通じてもたらされなければならない。いいかえれば、農山村と都市間の人間と人間の多様な関係の上に立った多様な森林づくりといえるだろう。
また人工林をいたずらに敵視し、生産と環境を相反するものと見るのでなく、林業の重要さを十分に認識しながらも森林利用を木材生産に突出したものとせず、多様な森林との関係の中に埋め戻していく作業が必要なのである。
人工林問題に代表される都市住民の考える自然保護観と農山村の実際の土地利用との軋轢は、こうした背景への相互理解の不在がもたらしているところが大きいといえるだろう。
こうした中で都市の生活環境の悪化や都市住民の自然志向の高まりにより、アウトドアレジャーや環境教育・都市と農山村の交流といった都市住民の森林へかかわろうとする動きは年々増加しつつある。こうした動きは都市と農山村の相互理解の場足り得るであろうか。
ここでは、都市と農山村・森林の新しい関係づくりにつながりうる可能性を持った都市住民サイドの活動である森林ボランティアに注目して検討してみたい。
森林ボランティアとは単純に言えば「一般市民の参加により、造林、育林などの森林作業(森林・林業に関する普及啓発として行うものを含む)を、ボランティアで行うこと」である。
こうした活動は当初、国家による国民動員型の「官製」ボランティアとして始まった。すなわち大正年間に始まる「愛林運動」と、戦後その流れを汲んだ「国土緑化」運動である。これらは当時の文部省・農商務省・大日本山 林会によって始められ、現在も「全国植樹祭」として引き継がれている。こうした活動は森林・林業の重要性を広く一般に浸透させることを基本理念においているものの、あくまでも林業関係団体および中央官庁主導の中で開始された国家の視点から、緑化思想を浸透させるものであった。
こうした国家行政レベルでの認識に対して、森林ボランティアは変容を遂げる。高度成長期以降、官製ボランティアとは一線を画して森林に関わろうとする都市住民を中心とした市民運動があった。それらは自然保護運動として、原生林破壊などに対する「反対・抵抗・告発」型の運動を積み重ねてきた。こうした「反対・抵抗・告発」型の活動は知床や白神山地における伐採反対や開発反対に象徴されるものであり、これらは社会に大きな影響を与え、貴重な自然の保護という意味では一定の成果を得た。しかしながら林業関係者や 行政関係者といった他主体との関係は敵対的になりがちで、農山村住民と手を結び、森を守り、地域の人々とが森とともに暮らせる社会を作り出すことはできなかった。
こうした反省の中で市民による活動は、いたずらな「反対・抵抗・告発」でなく、地元関係者や行政の執行権限を基本的に理解し、場合によっては連携しつつ、共通の目的達成のためにともに活動する形態へと成熟を遂げていく。
このようにして、自律的かつ成熟した市民活動としての森林ボランティアが登場してきたのである。こうした変遷の象徴的なケースが、森林ボランティアの草分けでもあるが、除草剤散布に反対する活動でもあった富山県の『草刈り十字軍』(1974年)の登場である。その後80年代半ばには、東京を中心とした活動(浜仲間の会・花咲き村等)が、雪害林分の復旧や手入れ不足の人工林に対する保育活動として登場してくる。
そして現在、森林ボランティア活動は、手入れ不足による人工林の荒廃や、燃料革命などによって放置された里山に対して、農山村サイドと協力して森林の保育管理に参加するものが主流となっている。
また、戦後の森林政策、すなわち中央官庁による中央集権的な全国一律画一的な人工林造成施策が、木材自由化の中で破綻し、今や森林を保全するには、市民参加を前提として、地域の自然的・社会的条件に合わせた分権的な管理へと転換せざるを得なくなった。こうして行政と市民の関係は「上からの押しつけ」でなく「参加」がキーワードとなると同時に、都市と農山村の連携と参加に基づく森林保全活動が隆盛を迎えたのである。
林野庁の調査によれば、2008年時点で森林作業にボランティアとして参加する市民団体は全国で1863団体、1997年から6.71倍に急増している。
森林ボランティアは、原生的ブナ林の再生や里山林・人工林の保育など多様に展開し、多様な森づくりの主体の一つとして成長しつつある。しかしそれでも、ボランティアによって保全しうる面積は、森林全体からすれば点に過ぎない。無論、管理を委託された森林については水準以上の作業をこなし、管理者としての責任を大いに果たしている団体も数多くある。だとしても、すべての森林をボランティアで管理することは不可能である。逆に言えば、都市住民が実際に「安価な労働力」として機能することは、ただでさえ低い林業の労働条件をさらに低い水準に固定することにつながりかねない。森林ボランティアを森林管理の労働力として過度に期待しすぎるのは適切ではない。むしろ森林ボランティアの社会的意義は、参加する都市住民が農山村住民との交流や森林作業体験などを通じて、森林に関わる問題を掘りおこし、それを一部の農山村住民や行政だけの問題でなく、自らのものとして捉え、その解決に向けた新たな活動へと発展させている点にある。
こうした新しい展開の例としては、東京の森林ボランティアグループのネットワークとして始まった「森づくりフォーラム」が挙げられよう。林業経営者や行政関係者とも連携しつつ、より多くの都市住民に対する大規模な普及啓発イベントを実施したり、森林・林業に関わる政策提言を行うなど、ネットワークの利点を生かした市民セクターとして発展したNPOである。また森林ボランティアグループとして始まった『浜仲間の会』の変遷も注目に値する。参加者の問題の認識が徐々に深化するなかで、より多くの都市住民への問題提起を行うための林業地視察や講演会を行う組織として『東京の林業家と語る会』を発足させ、さらにそこに集まった林業関係者・木材関係者・建築関係者・ユーザーらがネットワークを形成し、地場産材による産直住宅組織『東京の木で家を造る会』を誕生させた。さらにこの動きが全国に波及し『近くの木で家を造る』運動として都市と農山村を結ぶ動きが全国で展開するようになっている。
以上のように森林ボランティア活動の広がりは、より多くの都市住民への森林・林業問題の普及啓発を行うと同時に、国産材利用運動や森林政策のあり方を問う政策提言の動きへと発展するなど、都市と農山村・森林を結ぶ多面的な市民活動の母体となっている。
市民活動としての森林ボランティアは、農山村と都市の関係の再構築を通じた多様な森づくりに向けた都市住民サイドの活動として大きな意味を持っている。森林保全はこれまで農山村住民だけに「押しつけられ」てきた傾向が否めない。市民参加すなわち都市住民の森林への積極的なかかわりの発展を通じて、都市と農山村の連携が生まれ「みんなで森を守る社会」づくりを進展させることが、森林ボランティア活動が持つ大きな意義であるといえるだろう。
市民活動としての森林ボランティアは、農山村と都市の関係の再構築を通じた多様な森づくりに向けた都市住民サイドの活動として大きな意味を持っている。森林保全はこれまで農山村住民だけに「押しつけられ」てきた傾向が否めない。市民参加すなわち都市住民の森林への積極的なかかわりの発展を通じて、都市と農山村の連携が生まれ「みんなで森を守る社会」づくりを進展させることが、森林ボランティア活動が持つ大きな意義であるといえる だろう。
山本 信次(やまもと しんじ):1968年東京都生まれ。
東京農業大学林学科卒業、同大学院博士後期課程修了、林学博士。東京農業大学副手・岩手大学農学部助手を経て、現在、岩手大学農学部准教授。
森林管理に関わる市民参加についての研究のかたわら、自ら都市住民に対する森林・林業についての普及啓発活動を展開している。森林は農山村から都市までを含む「流域社会」の共通財産であり、またその森林は山村に生活する方々による木材生産をはじめとした多様な森林利用によって維持されてきたものであり、都市住民はもっとその事実を認識し、森林保全に参加する必要がある」ということが活動の基本的モットーである。
具体的な活動としては、都市住民による放置林管理作業市民団体「浜仲間の会」第2代代表、東京都における森林保全市民団体のネットワークNPO法人「森づくりフォーラム」理事、「森林と市民を結ぶ全国の集い」の全国実行委員、東京都世田谷区と群馬県川場村の交流および森林保全のための都市住民参加活動「森林(やま)づくり塾」のコーディネート担当などを行ってきた。
現在は大学演習林を利用した都市住民に対する森林・林業理解の場づくりを実践中であり、その延長として地産地消の家造り活動団体イーハトーヴの森と家づくりフォーラムの代表を務めている。