民俗学者 谷川 健一(第2664号・平成21年1月12日)
地名は日本人の遺産である。幾十世紀となく日本人が大地につけてきた足跡、それが地名である。その足跡を大切にしないということがあるだろうか。
その足跡は縄文時代、いやそれ以前から見られた。人間の社会生活の営まれるところに必ず地名があった。独り暮しならともかく、他人と共同生活をするのに、場所を示す言葉がなければ、たちまち不便におち入る。そこで第一に、地名はきわめて古い時代が存在した固有名詞である、ということができる。
第二に、地名の特質は、先史時代から存在する地名が、二十一世紀の今日なお使用されている、という事実である。たとえば弥生時代の後半の魏志倭人伝に登場する対馬、壱岐、末盧(まつろ松浦)などの地名は、二千数百年の後の今日も、日常的に使用されている。このことは見過ごしがちであるが、驚くべきことにちがいない。
それは縄文時代の土器、鎌倉時代の鎧、室町時代の陶器など、他の文化財と比べて見るとよく分かる。これはその時代が終わると、使われなくなり、今日では美術館の収蔵庫に保管され、私共は陳列棚の硝子越しに見るほかはない。しかし日本人の伝統的な遺産である地名は現在も生きた使用価値をもちつづけているのである。
第三の地名の特徴は、日常的に使用されていることから大切な取扱いを受けるのが当然であるが、実際はそうでなく、あまり大事にされないということである。それは水の場合と同様である。日本中どこへ行っても飲用水に不自由することなく、水道や井戸水はもとよりのこと、道行く人は山水や谷川の水も平気で飲んでいる。これが外国であれば、お隣りの韓国などでも山水は疫病や腹痛の原因となるから飲むなと禁じられる。その上外国では飲用水がたやすく入手できるとは限らない。ところが日本では飲用水は安全なものとして到る処にあり、タダ同然に扱われている。日本の地名も多くの人が毎日使用しているために、それがどのような文化的価値をもっているかが認識されない。
第四に、日本の地名は、北の北海道から南の沖縄まで、隙間なく埋めつくされている。人口一万人くらいの地方小都市でも、大字は数十、小字が数百といった自治体はザラである。小地名 にいたってはかぞえ切れない位である。シベリアの大平原など は人の住まない森林地帯が広大であるために、地名はまばらで しかない。それに比べると、日本の地名は圧倒するような数であ る。その点では日本はシベリアより広く、そして深い国なので ある。しかし、このように地名がおびただしいために、かえって地名を軽んじる風潮を生むことになったのもたしかである。
第五に、日本の地名は場所を指示する単なる記号ではない。 古代において地名は、土地の精霊(地霊)の名と考えられた。古 事記の国生み神話では、伊予の国には愛媛という名がつけられ た。愛媛は弟媛(おとひめ)に対する兄媛(えひめ)のことで、姉を云う。つまり土地が人格をもっているのである。
第六に、地名のもっとも重要な点は、その土地にながらく住んできた人たちの共同意識や共 同感情がこめられている、ということである。それは土地と一 帯になった地名への愛着といってよい。そこでは地名に冠せられる枕詞も地霊と深くつながっている。たとえば「芦が散る難 波」といえば、そうした現場を見たことのないものでも、難波湾に芦の花が散っている光景を想像することができるのであ る。このように、地名に共同意識、共同感情がこめられていれ ばこそ、深く馴れ親しんだ地名が勝手に変更されることに、烈しい憤りをおぼえ、喪失感をあじわうのである。
第七に、地名は大地に刻まれた人間の営為の足跡である。その足跡は日本人の感情を喚起するばかりではない。これを知識の上から見ると、地名は大地に刻まれた百科事典の索引であ る。地名という索引からは、民俗学、地理学、人類学、考古学、国文学などさまざまな分野にわたる知識が引き出される。地名には古代史を解く鍵がひそんでおり、地名はまた地下の遺跡や遺物の所在を暗示することがしばしばである。また地名を見れば そこが崩落しやすい危険な地名であることが判断できる。トキという地名があれば、そこにはかつてトキが棲んでいた場所であることがたしかめられる。このような例は枚挙に暇がない。
以上、地名の特徴を見ても、地名が日本人としての証明や自 己確認、つまり日本人のアイデンティティに不可欠なものであ ることが理解できる筈である。しかし今、日本の地名の置かれ ている現状は、まことに憂慮すべきものがある。それを下に見 てみたい。
日本は近代国家として出発するにあたって、江戸時代までつ づいてきた古い文化をかなぐり捨て、欧米に見倣った新しい基準を採用した。それは、古いものは悪であり、新しいものこそ善である、という考えであった。この価値基準は今次の敗戦によって消滅するどころか、戦後の日本社会でますます強化の 一途を辿っている。
一九六二年に自治省が「住居表示に関する法律」を公布施行して、地名改変を許容し奨励したことで、戦後日本の大幅な改 悪が急激にはじまった。馴れ親んだ地名を残してほしいという 地元住民の訴えを無視して強行した結果、由緒のある歴史的地名の大半は消滅し、さむざむとした新地名がいたるところに 簇生(そうせい)した。これは日本の伝統文化にたいする真向からの挑戦と受 取った私は、それに抵抗するために、全国組織「地名を守る会」 を一九七八年(昭和五十三年)に結成し、それから三年後の一九八一年には川崎市に「日本地名 研究所」を設立し、以来、地名を守る運動と地名研究をつづけて今日にいたっている。その甲斐もあって地方自治体による無謀な地名改変の動きはやや沈静化するかに見えたが、平成の市町村大合併がはじまると、日本の地名は更なる受難時代を迎えることになった。それは大方の予想を越えた珍妙で奇天烈な新地名の続出であった。新しい地名を地方自治体の広告塔とみなす傾 向がいちじるしく、そのためには歴史的に由緒ある地名はかなぐり捨てて、ブランド商品のように観光や商売と結びつけよう とする動きが平然と横行した。
藤原正彦氏の「国家の品格」 に倣って「地名の品格」という観点から見ると、品格のない地名がおびただしい。その筆頭は四国中央市である。これは四国のどの県の県庁所在地からも車で一時間ぐらいの距離にあり、 道州制が実施された際に、州都になろうというもくろみが含まれていて、命名されたものであるという。この地域は平安時代の「和名抄(わみょうしょう)」に宇摩郡とあり、現在も宇摩郡である。公募でも それにふさわしい「宇摩市」が一番多かったと聞く。それをど のような意向がはたらいて、このような恥ずかしい地名を選んだのか。岩手県には、水沢市、江刺市、前沢町、胆沢町、衣川村が合併して奥州市が誕生した。奥州は東北地方全体にあて はまる言葉で、広大な地域の呼称である。それを岩手県の二市二町一村のせまい区域の呼称とするのは、誇大広告のようなものでまったく実情に合わない。山梨県には甲府市のほかに甲州市と山梨市が近接しているが、これなども国名・県名を三カ所で名乗って紛らわしいことこの上なしである。山梨県は南アルプス市が誕生した。アルプスという外来語を地名に使用した初めての例。これでは銀行名やスナックの名前とまちがわれる。 南アルプス市に合併した六町村のうち、南アルプスの山が見え るのは、旧芦安村だけである。 静岡県には伊豆半島に、「伊豆 の国市」「伊豆市」「西伊豆町」の二市一町が出現した。「伊豆の国市」などは遊園地の名前のような市である。しかもこの三市はせまい地域にひしめきあっているのである。このような命名を誰が許したか。それを認可した行政の責任は、きびしく問われるべきである。
今は亡き文芸評論家の山本健吉氏は、戦後日本の三大愚行と して、
(イ)歴史的仮名遣いを廃止して現代仮名遣いに改めたこと
(ロ)尺貫法を廃止してメートル法を採用したこと
(ハ)住居表示法による地名改悪
の三つをあげている。これには平成の市町村大合併の地名改変も加えてよいであろう。
冒頭に述べたように、明治政府がとったのは、新しいものは善であり、古いものは悪であるという近代化の尺度であった。 それゆえに古代から蓄積してきた文化遺産は投げ捨てられ、西洋文化に対する見境のない追随がはじまった。その傾向は今も やむときがない。地名への敬意が失われたのも、近代になってからがいちじるしい。たとえば生田とか畑山とか農業に関わる 地名は嫌われる。沼という地名は忌避される。低湿地を避け、高台に住居を定めることを好む傾向から、平地なのに××台の ような地名をつけたがる。
日本人の先祖が幾代にもわたって 孜々営々(ししえいえい)と耕やしてきた田畑の地名を嫌悪し、国籍不明のカタカナまじりの地名をありがたがるという心情はまずし い。地名は日本人が過去とつながっていることを証明するもっ とも身近かな民族の遺産である。それを顧慮せず、地名を改 竄することは、歴史の改竄にほかならない。過去をおろそかに扱う国民に未来はない。過去と未来が断絶したとき日本人のアイデンティティの生まれようがない。地名は日本人の誇りであ るという自覚の上に立って、由緒のある地名を大切にしていかねばならない。
谷川 健一(たにがわ けんいち):1921年水俣市生まれ。
民俗学者。日本地名研究所所長。「南島文学発生論」で芸術選奨文部大臣賞。
長年の研究に対して南方熊楠賞を受賞。文化功労者。