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経済成長路線と農山漁村 ―内発的地域づくりの好循環を目指して―

印刷用ページを表示する 掲載日:2013年11月18日

明治大学教授 小田切 徳美

1.はじめに

「東京オリンピック」、「(リニア)新幹線」。あたかも半世紀前、1960年代のデジャブ(既視感)のように感じた読者も多いのではないだろうか。 「第2の敗戦」とも言われる東日本大震災と福島原発事故の後に、高度経済成長へ期待が喧伝され、バラ色の未来が描かれる。敗戦から20年を経た1960年代前半もそうだったのだろう。

しかし、決定的に異なるのは、震災からわずか2年後である現在は、いまだに多くの被災者が苦しみ、また多数の人びとが原発の放射能により生活を脅かされていることである。 それを忘却の彼方に追いやり、あたかも半世紀前の再来、さらには半世紀ぶりのチャンスと、成長路線を語ることはあまりにも無節操ではないだろうか。そもそも、その経済成長路線が実現する保証も、 そしてそれが農山漁村を豊かにする保証もない。

2.経済成長と農山漁村

(1)高度成長期

少しだけ歴史を振り返ってみよう。農山漁村等の地方部を対象とする成長政策は、東京オリンピック直前の1962年に策定された全国総合開発計画(全総)からスタートしたと言われている。 この計画は1998年に制定される五全総まで、5回にわたり作成され、時々の政権により作成される経済計画とともに、日本の社会と経済に強い影響を与えてきたと言われている。

その最初の計画となったこの全総では、折からの高度成長の中で生じた諸問題に対して、「地域間の均衡ある発展」が目標として設定された。そして、そのために採用された手法が拠点開発方式である。

そこで想定されていた成長のプロセスは、次の様に説明されている。まず、地方の拠点に産業基盤投資を集中し、当時の基幹産業であった石油、化学、 鉄鋼等の素材供給型重化学工業のコンビナートを建設する。それにより、地方拠点都市における重化学工業とその関連産業の発展を促進する。そして、 この地方での食料需要の増大や雇用機会の拡大を媒介として、後背地に位置付く農山漁村に開発成果を波及させる。その結果、後背地を含めた地域全体の所得水準の上昇を実現し、 さらに関係自治体の税収がアップする。それにより、どの地域でも更なる公共投資や福祉政策の充実が可能となり、成長過程で過疎・過密問題は解消するというものであった(宮本憲一『経済大国』小学館、 1989年)。つまり、拠点への集中的公共投資から始まる好循環への期待である。

しかし、それは農山漁村のサイドから見れば、地域そのものの成長ではなく、あくまでも外部(コンビナート)の経済的活性化に依存し、期待するという立場におかれることとなった。それにもかかわらず、 当時の地方はこの成長路線に対して熱狂した。周辺の農村部を巻き込み、「成長に乗り遅れるな」と、拠点の地域指定(新産業都市等)の際には、政治による激しい誘致合戦となったのである。

ところが、現実には期待された波及効果は農山漁村まで及ばなかった。そもそも拠点へのコンビナート立地は予定通りに進むことはなかった。また立地したとしても、 そこで得られた富は農山漁村に向かわず、周辺・後背地における経済効果は限定的なものであった。むしろ、 少ない波及効果を拾い上げようとする傾向は、「成長の極」と「依存地域」の間に格差意識を生み出し、それにより拠点都市や大都市への一層の人口移動をもたらしたのである。おそらく、 この時期の農山漁村からの人口流出は、単に賃金・所得差によるものだけではなく、意識上の格差も要因とするより根深いものであると思われる。つまり、地域に住み続ける価値や誇りを喪失する過程が、 ここには生まれていたのである。筆者が言う「誇りの空洞化」である(小田切徳美『農山村再生』岩波書店、2009年)。

それのみならず、この時期の「投資が投資を呼ぶ」「期待が投資を呼ぶ」という風潮のなかで、農山漁村における生活と産業の基盤でもある地域の自然環境は顧みられることが少なく、生態系の破壊や公害が頻発した。

こうして、結果的には、地域成長政策が、その目的としてかかげた「都市の過大化の防止」「地域格差の縮小」は、むしろ逆により深刻化したと言っても過言ではない。 成長路線がもたらす問題が各地で顕在化するにつれ、様々な立場からそれらへの批判が提起される。特に、1970年代前半の高度経済成長から低成長への基調変化は、 そのような議論の高まりを促進した。「地域主義」「地方の時代」などの議論や主張がそれであり、ある程度の影響力をもった。今日に続く地方分権改革の原点もここにある。

(2)バブル経済期

しかし、歴史は繰り返す。次の舞台は、1980年代中頃のバブル経済である。外需依存から内需拡大へという経済構造の転換促進ともかかわり、 中曽根政権下で1987年にリゾート法(総合保養地域整備法)が制定され、リゾートブームが発生した。そこではホテル、ゴルフ場、 スキー場(またはマリーナ)の「3点セット」と言われる民間資本の大規模リゾート施設の誘致が地域振興のあたかも切り札として議論されていた。当時の農山漁村にとっては、 このリゾートブームに乗れるか否かが、大きな分かれ目と考えられていた。

その点で、この時代は、①地域振興が経済分野に著しく偏って認識され、②そのためにはリゾート開発という外部資本導入こそが現実的な道だと意識されていた。つまり、 先の拠点開発方式のバブル経済版であるが、誘致施設が農山漁村の奥深くまで入り込むのははじめてのことであった。

しかし、その後のバブル経済の崩壊(1991年)にともない、このようなリゾート構想の多くは民間企業の撤退や参入中止により頓挫した。地域の経済的活性化が実現できなかったばかりでなく、 リゾート法により国立公園や森林、農地からの土地利用転換の規制緩和が図られたため、開発予定地が未利用地として荒廃化し、それは文字通り国土に大きな爪痕として残された。

3.「地域づくり」の含意―失われた20年―

このように、過去半世紀の間の成長路線は、いずれも農山漁村に対しては、想定された恩恵を生み出さなかった。もちろん、農山漁村へのなんらかの波及効果はなかったわけではないが、それはむしろ、 地域の外部主体への依存を強める結果となった。また、それは地域のオリジナルな産業を発展させることを阻害した。

こうした、いままでの地域成長路線の反省の中で論じられ始めたのが、「地域づくり」である。この言葉は「まちづくり」「むらづくり」という使い方も含めて、既に80年代からも使用されている。 しかし、独自の意味内容で使われ始めたのは90年代以降であろう。

ここには、少なくとも次の3つの含意がある(小田切徳美編『農山村再生に挑む』岩波書店、2013年)。第1に、地域振興の「内発性」の強調である。 いままでの拠点開発方式は二重の意味で外来型の開発であった。ひとつは、外部資本による開発であった点である。ふたつは、そうであるが故に、地域住民の意思とは無縁であった。つまり、 カネも意思も外部から注入されたものであり、地域の住民は土地や労働力の提供者、場合によっては外来型開発の陳情者に過ぎないものであった。そうではなく、 自らの意思で地域住民が立ち上がるというプロセスを持つ取り組みこそが、地域づくりであることが、この言葉では強調されている。

第2に「総合性・多様性」である。リゾートブーム下では、都市で発生したバブル経済の影響もあり、経済的利得の獲得に著しく傾斜した地域振興が意識された。また、 どの地域でも同じような開発計画が並ぶという「金太郎アメ」型の地域振興もこの時期の特徴であった。そのような状況からの脱却、つまり単品型・画一的な地域活性化から、 福祉や環境などを含めた地域の総合型、そして地域の実情による多様性に富んだ地域づくりへの転換である。地域づくりでは、地域の基盤となる地域資源に応じて、地域の数だけ多様な発展パターンがあることが強調されている。

そして、第3に革新性(イノベーティブ)である。いうまでもなく、地域振興はなんらかの地域における困難性が前提となっている。それを地域の内発的エネルギーにより対応していくとなれば、 従来とは異なる状況や新たな仕組みを内部に作り出すことが必然的に必要となる。過疎化の進行下では、過去の人口の多かった時代のしくみに寄りかかり、 それが機能しないことを嘆くことは繰り返し行われてきた(宮口とし廸〈とし=にんべんに同〉『新・地域を活かす』原書房、2007年)。しかし、それでは地域の前進は期待できない。そこで求められるのは、 社会的なシステムを地域自らが再編し、新しい仕組みを創造する「革新性」である。

つまり、多様な総合的目的を持ち、地域を革新しながら、内発的に新たな地域をつくりあげていくことが地域づくりとして進んでいるのである。高度成長期の拠点開発、 そしてバブル経済期のリゾート開発という外来型開発の問題点を認識し、このような地域づくりに向けた模索と実践が、この時期に日常的に行われるようになったと言える。

したがって、バブル経済から続く「失われた20年」と言われるゼロ成長期は、むしろ工場やリゾート施設、あるいは原発の誘致ではない地域再生の道を地域自らが考える環境を作り出したとも言える。 その点で、農山漁村では「未来に向けた20年」であった。

もっとも、この間の90年代終わりからはじまった市町村合併促進政策はそのような地域の模索の阻害要素となったことも間違いない。内発的発展どころではなく、 自らの足下(自治体)の再編が中央政府の「アメとムチ」により迫られたのである。しかし、合併を意識的に選択しなかった市町村や、 また合併にかかわりなく自らの地域づくりを進めようと決意を持った地域が生まれたことも確かであろう。

4. 確信・覚悟からはじまる好循環

このように、高度経済成長期やバブル経済期とは異なり、この間、地域づくりといわれる内発的に地域を再生しようとする営みが確かに生まれ、それが農山漁村に広がりつつある。そして、 その深奥には「農山漁村は内発的にしか発展しない」という地域からの確信や覚悟がある。

注目すべきは、そこに援軍が生まれていることである。他ならぬ都市の若者である。自らの確信や覚悟のある地域に対して、彼らは、自分達の力でなにかできないかという貢献意識を持ち、地域を訪れ、 学び、さらにはその空間を共有しようと移住する者もいる。彼らに聞けば、しっかり自らの方向性を定めた地域は「かっこいい」からだと言う。それは、内発的発展の確信・覚悟からはじまる好循環である。 様々なメディアが注目する「地域おこし協力隊」の動きも、そのひとつの表れであろう。そして、この好循環は、農山漁村への安定的な財政支援の有力な根拠にもなろう。将来世代が活動する可能性がある場を、 きちんと支えることは、当然に国民的コンセンサスになるものだからである。

そうした時に、冒頭で見た新たな経済成長路線が唱えられている。農山漁村内部からの成長戦略が語られず、しかも、「成長、成長」というかけ声が社会全体を覆う時、農山漁村に芽生え、 広がり始めた内発的地域づくりへの確信や覚悟も揺らぐ可能性は否定できない。実際に「百害あって一利ない田舎暮らし奨励政策をやめて、大都市中心部への人口と経済活動の集中を妨害さえしなければ、 高度成長の再現だって夢ではない」(増田悦佐『高度成長は世界都市東京から』KKベストセラーズ、2013年)と早速唱え始める論者もいる。

加えて、環太平洋連携協定(TPP)や道州制という経済機構や統治機構の大再編の足音も近づいている。それにより、農山漁村は直接的な打撃を受けるのみならず、その議論に巻き込まれることにより、 このせっかくの確信と覚悟が乱される可能性もある。

いま、農山漁村に必要なことは、こうした成長路線でも大再編路線でもなく、内発的地域づくりの確信・覚悟からはじまる好循環を、静かな環境で着実に育てて行くことではないだろうか。 だからこそ、『スモール・イズ・ビューティフル』のシューマッハーとともに思う。“The party's over(宴は終わった)”(シューマッハー『宴のあとの経済学』ちくま学芸文庫、2011年)。 すべてはそこから始まる。

小田切氏の写真です小田切 徳美(おだぎり とくみ)

1959年神奈川県生まれ。農学博士。東京大学農学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。高崎経済大学経済学部助教授、東京大学大学院助教授等を経て、2006年より明治大学農学部教授。 明治大学農山村政策研究所代表。
専攻は農政学・農村政策論、地域ガバナンス論ふるさとづくり有識者会議座長(首相官邸)、国土審議会委員(国土交通省)、過疎問題懇談会委員(総務省)、 食料・農業・農村審議会委員(農林水産省)、今後の農林漁業・農山漁村のあり方に関する研究会座長(全国町村会)等を兼任。 主な著書に、『農山村再生』(岩波書店)、『農山村再生に挑む』(編著、同)、『地域再生のフロンティア』(共編著、農文協)、『農山村は消滅しない』(岩波書店)等多数。