ジャーナリスト 村田 泰夫(第2748号・平成23年2月7日)
いまこそ、農山村のかけがえのない価値を、国民みんなが確認しなければならない。菅直人内閣は昨年秋、TPP(環太平洋パートナーシップ)協定への加入に強い意欲を示した。自由貿易協定(FTA)のアジア太平洋版であるTPPには、米国やオーストラリアなどの「農業大国」が加入することから、何らかの対策を打ち出さなければ、日本の農業や農村に与える打撃は大きい。農業生産の減少といった次元にとどまらず、私たち日本人の原風景である農山村や地域社会を崩壊させてしまう。TPPのような市場開放問題に直面した今こそ、わが国の農山村のかけがえのない価値について、国民的合意を形成するチャンスとしなければならない。
TPP論議の行方が気にかかる。というのは、国論が二分されたままで、産業界と農業界がお互いに「犠牲」という言葉を使いだしているからである。前原外務大臣が「1.5%(農業)を守るために、98.5%(産業界)が犠牲になる」といえば、茂木全国農協中央会長は「TPPと農業再生は両立しない」と主張し、農業界は「農業が一部の輸出産業の犠牲になる」としてTPP加入の対応策の検討に入ることを拒否している。
TPP参加の意義について、政府部内や産業界の中には「アジアの成長を取り込む」ために不可欠で、参加しなければ「世界の孤児になる」と危機感をあおっている。こうした立場に立てば、TPP加入を阻止しようとする農業界は「けしからん」ということになる。しかし、冷静に点検してみれば、疑問点がすぐに浮かぶ。
少子高齢化社会の本格的到来で、わが国の国内需要が縮む中で、「アジアの成長を取り込む」という日本の新成長戦略は正しいが、TPPがそれに資するというのは疑わしい。TPP交渉に参加する9カ国のうち、日本が2国間FTAを結んでいないアジア地域の国はゼロだからである。とくにアジアの中でも成長著しい中国やインド、韓国はTPPに当面参加しないから、TPPに参加することで「アジアの成長を取り込む」ことはできないし、「参加しないと取り残される」ことも起きない。
しかも、TPPはさまざまな自由貿易協定の枠組みの中でも、日本にとって最もハードルの高い選択肢であり、得策とは言えない。TPP交渉参加9カ国の中で日本がFTAを結んでいないのは、米国、豪州、ニュージーランド(NZ)、ペルーの4カ国である。ペルーとはすでに交渉中で妥結のめどがついているから、事実上、TPPは米国、豪州、NZとのFTA締結を意味する。この3カ国は、いずれも「農業大国」である。
豪州とは実は3年前の2007年4月からFTA交渉を始めている。しかし、妥結のめどは立っていない。というのは、豪州の対日農林水産物輸出額の半分が、牛肉、乳製品、麦、砂糖だからである。これら4品目は日本にとっても「重要品目」で、関税撤廃の例外扱いにしたいところだが、そうすると自由化率がものすごく低い「もぬけの殻」のFTAとなってしまい、豪州側が受け入れない。対豪州FTA交渉が進展しない状態では、日本がTPPに加入したくても、9カ国側から拒否されてしまうかもしれない。
ただ、ひとつ留意しないといけない点がある。TPPは太平洋を取り囲むアジア、南北アメリカ、大洋州の諸国で関税撤廃を原則とする高いレベルの自由貿易協定を結ぶ多国間FTAである。すでにシンガポール、ニュージランド(NZ)、チリ、ブルネイの4カ国で結んでいて、そこに米国、豪州、ペルー、ベトナム、マレーシアが加わる交渉がいま進められている。TPPがにわかに注目されるようになったのは、APEC(アジア太平洋経済協力)加盟21カ国で貿易の自由化を進める「理想形」であるFTAAP(アジア太平洋自由貿易圏)構想というゴール到達に最も早い近道だとの認識が広がったからである。
FTAAPに向けて、さまざまな提案が出ている。中国はASEAN+3(日中韓)を提唱し、日本はASEAN+6(日中韓印豪NZ)を提唱している。それぞれ、主導権を握ろうと思惑が絡んでいて、一筋縄では進まない。それに対してTPPはすでに発効しているし、追加加入の道がAPEC諸国に開かれているので、米国や豪州が乗ったわけである。
世界の人口の4割、GDPの6割を占めるAPEC加盟国で自由貿易圏を形成するFTAAPは、日本はもちろん中国、韓国、インド、米国など加盟21カ国が賛成している。TPPが最終目標であるFTAAPに発展していったり、WTOドーハ・ラウンドの新しい貿易ルールの下敷きになったりする可能性は大いにありうる。その意味で、TPP交渉の行方に強い関心を寄せておかなければならない。
世界経済がグローバル化を加速させている中で、日本がどのような経済運営をしていくか。悩ましい問題である。2008年秋のリーマンショックで、カジノ経済化したマネー資本主義の危うさが明らかになった。バブル経済の破綻は金融システムの信任を失わせしめ、世界経済を一気に収縮させた。リーマンショックを海の向こうの出来事と思っていた日本の中小製造業でさえ、一斉減産を強いられ、派遣やアルバイトなどの「非正規雇用者」の解雇=「派遣切り」を余儀なくされた。わが国の地方経済にも、兼業機会の減少や兼業農業者の所得低下という形で波及している。
できれば、マネー資本主義とかかわらない世界にいたい。自由貿易が、途上国の人々を含む世界の人々を豊かにするとも思えない。といって、自由貿易の枠組みである世界貿易機関(WTO)から脱退して、鎖国するわけにもいかない。自由主義国で世界第二の経済大国である日本としては、「自国のみのことに専念して他国を無視してはならない」し、できれば「名誉ある地位を占めたい」と思う(いずれも憲法前文)。好むと好まざるとにかかわらず、日本経済はグローバル経済から逃れることはできないのである。
TPP加入が賢明な選択とは思えないが、WTO交渉やFTA交渉を進めなければいけない場面も出てこよう。仮にTPP加入を先送りすることができたとしても、今後も何らかの形で農産物の市場開放を迫られる事態は避けて通れないのではないか。市場開放の要請と国内農業の維持とを両立させる方策について、いまからきちんと詰めておかなければいけないのではないか。TPP論議の高まっている今がそのチャンスかもしれない。
いっそうの自由化で関税が引き下げられ、海外から安い農産物がどっと流入すれば、コストの高い国内農産物は市場から駆逐され、日本農業が崩壊するという農業者の懸念はもっともである。だから、これまでもWTOやFTA交渉の場で、農業界は「自由化反対」の運動を展開してきた。私たちはいま、そうした運動から教訓を学ばなければならない。
1993年12月に妥結したウルグアイ・ラウンド(UR)農業交渉の「米の市場開放」問題から、貴重な教訓を得ることができる。日本にとって最大の懸案は、「例外なき関税化」を受け入れるかどうかだった。日本は米の輸入を事実上禁止してきたが、関税を払えば輸入できるように輸入率を設定せよというのが、欧米からの要求だった。農業団体は、関税さえ払えばいくらでも輸入できる「関税化」は「自由化」と変わらず、「絶対反対」だと強硬だった。国会での反対決議もあり、米について関税化の例外とする「特例措置」を日本は選択したのである。
「関税化」=「自由化」を阻止した点で、日本は主張を通せた。ところが、特例措置には「ペナルティ」が付きものである。関税化拒否のペナルティとして、日本は国内市場の4~8%相当分のミニマム・アクセス(MA)米を低関税で輸入しなければならなくなった。年間77万tものMA米は、わが国の食料自給率の引き下げにつながっている。冷静に検討しておけば、特例措置より最初から関税化を選択していた方がよかった。遅ればせながらそう判断した政府は、1999年に自主的に関税化に移行、それ以降のMA米の上積みを防ぐことにした。
米の自由化に賛成すべきだったということをいいたいのではない。関税化した時の得失や代償措置などについて、データを検証し冷静に議論しておくべきだったし、そのことを教訓とすべきだといいたいのである。TPP交渉でも要注意である。日本の要求通り、米を関税撤廃の例外にする特例措置を「勝ち取った」ときこそ、注意しなければならない。ペナルティとして大量のMA米を押しつけられたら、目も当てられない。
市場開放と国内農業維持との両立には、EU(欧州連合)の経験が参考になる。前のEC時代から、域内の市場を統合するため「共通農業政策」を採用してきた。市場の統合時に競争力のない国に合わせて農産物の支持価格を決めたので、当然高い水準となった。その結果、生産意欲を刺激し、大量の穀物在庫を抱えることとなった。輸入課徴金で域内市場を守るとともに、輸出補助金をつけて域外にダンピング輸出をした。輸出市場で米国と激突し、「農産物貿易戦争」が起きた。その解決の場がウルグアイ・ラウンド農業交渉だった(1993年12月妥結)。
UR交渉に対応するため、EUは1992年に大幅な農政改革に踏み切った。農産物支持価格を引き下げる見返りとして、直接支払(所得補償)制度を導入することにしたのである。①米国の要求に応じ輸出補助金を削減する②輸出のはけ口が減るので、農産物の過剰状態を解消する必要がある③それには生産刺激的な域内の農産物支持価格を引き下げる④域内の農業生産者の所得が減ってやっていけなくなる⑤農業者の所得を維持するため、支持価格引き下げ相当分を政府(EU)が直接補償する「直接支払制度」をスタートさせた。
支持価格の引き下げで農業者の農産物販売収入は減ったが、その分を政府が補償してくれるので、農業者の生計は一応保たれることとなった。
米国はどうであろうか。地平線の彼方まで見渡す限りの広い農場で、飛行機で種をまき巨大なコンバインで収穫するというイメージの米国では、生産効率が高く競争力があるから、農産物価格の水準が低いと思われている。広大な農地に恵まれていることもあって確かに生産効率は高いことは確かだが、政府の手厚い価格支持政策と所得補償政策があるので、農産物を安く輸出できている。外国には「農業保護策の撤廃」を求める米国だが、国内農業を守るために「きっちり保護」している。①事実上の最低価格保証制度である価格支持融資(ローン)制度を1930年代から実施②過去の作付面積に応じて一定額を支給する直接固定支払制度を1996年農業法で実施③市場価格が目標価格を下回ったら差額を補填する価格変動対応型支払制度(「不足払い制度」)を2002年農業法から実施、といった具合に至れり尽くせりである。
欧米の農政が価格政策から所得政策にとっくに切り替わっているのに、日本はなお「農産物価格を高く維持することで農業者の所得を確保する」政策から完全に抜け出せていない。国内価格を維持する方策の一つが、関税障壁を設けて海外から安い農産物が入ってこないように隔離する政策である。それに代わる支援策がないから、農業者は関税の引き下げや撤廃につながるWTOやFTA、TPPに反対するのである。
現状でTPPに反対するのは当然だが、「断固反対」を叫ぶだけで、日本農業の展望が開けないこともまた現実である。では、どうしたらいいのだろうか。閉塞感の募る現状を打破し、農山村のかけがえのない価値を守るために、いまこそ欧米諸国の採用している恒久的な農山村保全政策を導入するチャンスではないかと思う。
農山村はなぜ守らないといけないのか。農業者の所得が少ないからなのだろうか。農業者世帯の所得は今でこそ兼業所得が減って都市の勤労者世帯を下回っているが、貧しいわけではない。田舎は不便だからだろうか。都市施設はないが、どちらかといえば農山村の方が心豊かに暮らせる。農山村を大切にしなければならないのは、農業や農村のためなのではなく、都市住民を含む国民全体にとって利益となるからである。
全国町村会が平成13年に提言した「21世紀の日本にとって農山村が、なぜ大切なのか」にあるように、農山村にはかけがえのない価値がある。第1に、農山村は食料生産の場であり、国民の生存を支えている。第2に、水害防止などの国土の保全、水源涵養・飲料水の供給、自然生態系の維持など国土を支える機能を果たしている。第3に、農林漁業という生産活動を通じて形成された伝統的行事やお祭りなど日本文化の基層を支えている。第4に、国民のレクレーションや環境教育の場となるなど自然を生かす活動の場を提供している。第5に、バイオ資源を提供したり高齢者の医療・福祉の場となったり、新しい産業を創りだしている。
こうした多面的機能の価値は、文字通り「計り知れない」のであって、金銭に換算することは難しいが、農林業に限って、しかも金銭換算が可能な部分だけを集計しただけでも、森林で70.3兆円、農業で8.2兆円にのぼる。
金額の多寡はともかく、いかなる政策も、それによって農山村のかけがえのない価値を失うことになってはならない。WTOであれTPPであれ、経済大国である日本が世界の国々と協調していくために市場をさらに開かなければならないとしても、日本という国や日本人のアイデンティティーである農山村はしっかり守るというスタンスを、為政者は明確にしてもらいたい。
「国破れて山河あり」という。戦乱で国は敗れても、ふるさとや自然は変わらないという意味である。北海道から九州まで豊かな四季に彩られるわが国の山河は、たとえ政治が混乱し経済が悪くなろうとも、守り抜かなければならない存在である。米国や欧州諸国の政府が、税金を投入してまで農業や農業者を守るのは、なぜなのだろうか。農家を守るという意味もあるが、地域内の農業生産が維持され続けることで、国土保全や環境保護、景観維持など多面的機能が守られると確信しているからである。農業者の所得を補償する直接支払制度に対して、欧米諸国内にも「バラマキ」だとして批判的な意見はある。しかし、大多数の国民が必要な財政支出だと判断している。農業や農村を守るという国民的コンセンサスが成立していることをうらやましく思う。
何の手当てもしなければ、TPP加入でわが国の農業は壊滅する。対応策をとると菅首相はいっているが、かつてのUR対策のような公共事業費の上積みでは農山村は維持できない。「強い農業体質」をめざして規模を拡大したり新規参入者を増やしたり、高齢者が担っている今の零細な農業構造を改革することは必要だが、それで欧米諸国と価格競争できるわけでもない。
農業者にいっそうの努力を求めながらも、彼らの努力では如何ともしがたい諸外国との生産性格差は、国民全体で支える仕組みづくりを急ぎたい。
村田 泰夫(むらた やすお)
1945年生まれ。北海道大学農学部卒。
朝日新聞経済部記者として財政、金融、農政を担当後、論説委員、編集委員。退職後、農林漁業金融公庫理事、明治大学農学部客員教授を歴任。現在、食と農と環境問題に取り組むジャーナリスト。中山間地域等直接支払制度等に関する第三者委員会委員。NPO・地球緑化センター理事。
著書に「戸別所得補償制度の衝撃」(農林統計協会)。