早稲田大学教授 宮口 侗廸(第2955号・平成28年4月4日)
この数年、農山村に関する多くの書物が相次いで出版されている。しかもその多くは、人口減少・高齢化に悩む農山村を語りつつも、その持つ本来的な価値を肯定的にとらえている。 日本の農村社会については、戦後、その封建的な側面を強調する書物が刊行された時代があり(たとえば古島敏雄編:「山村の構造」など)、その後、 わが国の農村が多くの知恵に支えられた暮らしの場であるという貴重な指摘(守田志郎の一連の著作)もあったが、近年の様に一般向けの多くの書物で農山村が語られたことはこれまでにはなかった。
その先鞭をつけたのが、小田切徳美氏の『農山村再生-「限界集落」問題を超えて』(岩波ブックレット)であり、さらに若手研究者の執筆をまとめた氏の編著『農山村再生に挑む』(岩波書店)であろう。 そしてその数年後に、増田寛也氏の『地方消滅』(中公新書)が出版されたのを受けて、時を経ずして『農山村は消滅しない』(岩波新書)という反論を出されたことについては、心から敬意を表したいと思う。 そしてその後さらに、大江正章氏の『地域に希望あり』(岩波新書)という、価値ある地方社会の動きを綴ったルポが出されている。なお、農山村という表現は、 効率的な大規模農業が困難な中山間地的な地域をイメージしている。
筆者は、そもそもわが国の農山村は、おそらく世界の中でもかなり素晴らしい暮らしの場であったと考えている。江戸時代の平和の中で全国で盛んに新田開発が行われ、今に近い農村集落の分布が出来上がった。 欧米に比べてわが国の農業の経営規模が零細であることは常に語られてきたが、これは、零細でも生活できたからだと考えるべきである。その根拠はわが国の水田の極めて高い生産力にある。 小規模を卑下して俗に三反百姓などと言われるが、三反で生活できたからこそこのような言い方が生まれたと考えるべきである。
ヨーロッパでは今でも畑の価値を「蒔いた種の何倍とれるか」で表現する習慣がある。わが国では「反あたり何俵とれるか」であり、何倍などとはまず考えない。ここに耕地の生産力の大きな差が示されている。 近世に入っても5~6倍であったヨーロッパの畑作に対し、江戸時代の日本の水田は30~40倍あったとされる(鯖田豊之『肉食の思想』中公新書)。そして今の日本の水田は数百倍は普通である。昨秋、 東北の農家に一粒から丁寧に育てると何粒とれるか数えてもらったところ、2000粒という驚異的な結果を知らされた。水と夏の暑さに恵まれた風土に加え、たゆまぬ努力の積み重ねが、 わが国の豊かな水田農業を生んだのである。各地に造成された棚田も、この努力の結晶にほかならない。
さらに筆者は、富山県の小杉町史執筆のための調査で、小作地券の存在を知った。地主小作関係の存在は農村の負の側面として語られてきたが、小作地券は、小作人の都合に応じて、 地主に無断で村人の間で小作権の売買が行われていたことを示す。諸外国の厳しい地主小作制度を垣間見てきた筆者は、このことも、 経済的な上下の中でも地域社会として支え合ってきたわが国の農村社会の価値を示すことと受けとめたい。
そして次三男が新天地を目指す一子相続的な村の継承によって、特に中山間地域では、樹木に覆われた山々と、農家と水田が織りなす風格ある農村風景が、最近まで受け継がれてきた。このことは、 わが国の農山村がいかに安定した暮らしの場であったかを示して余りある。そして高齢化の進行の中でも、小規模な農業の上に暮らしの場としての価値は揺らいでいない。このことは世界に誇っていいことである。
その多くが過疎地域となっている農山村において、まず大切なことは、人口減少・高齢化が進んでいることはその地域のせいではなくて、わが国を全体的に覆う現象だという認識を強く持つことである。 都市の職場がいい形で増え続け、農山村から若年人口が流出し続けたことが驚異的な経済成長を生み、全体の生活水準を上昇させた。大切なのは流出した側もその流れをすなおに理解し、 減少した人口を出発点として、現状からいかによりよい状態をつくり出すかである。その作業こそまさに地域づくりに他ならない。
筆者は20年近く前に刊行した著書ですでに、「過去の人口が多かった時代を再現しようなどとは考えず、少数の人間がその地域で、どのようなきちんとした生産と生活のシステムをつくることができるかを、 原点から洗いなおすことである」と指摘している(『地域を活かす』大明堂)。当時の過疎自治体の関係者の発言は、「人口減少にいかに歯止めをかけるか」に終始していたが、筆者は同書で、 数で考えるのではなく、「先進的な少数社会」をつくることにより「魅力ある低密度居住」の実現を目指すべきで、そのためには人口増という呪縛から解放されることが大切と主張している。
その後書き改めた『新・地域を活かす』(原書房)では、いろんな使い方がされている「地域づくり」を、「時代にふさわしい地域の価値を内発的につくり出し、地域に上乗せする作業」と明確に定義したが、 幸いこの定義は低密度居住論とともに小田切氏らの著書等で引用していただいている。以下、あらためて原点に帰って持論を展開したい。
安定した集落単位の地域社会であった農山村は、外部の人とあまり付き合う必要がなかった長い歩みを持つ。同じ顔ぶれでのつき合いからは違った発想が生まれにくく、 新しい状況をつくり出すことが困難であることは論を待たない。人口減少・高齢化が進んだ地域社会は、新しい産業が生まれにくいのみならず、地域社会そのものの運営も行き詰まる。それを打破するためには、 違った立場の人と付き合い、意見を仰ぐ必要がある。そもそも違った立場の人と付き合うことを交流というのであり、かつての農山村の人たちは交流が苦手であった。都市農村交流事業も、 都市の人に農村の価値を知ってもらうと同時に、農村の人が、都市の人が自分たちとは異なる眼を持つことを知ることに重要な意義があるのである。
最近では、地域にふつうにあるものが違った眼で見るとすばらしい価値を持つことがかなり理解されてきた。筆者は旧国土庁時代から15年ほど続いた地域振興アドバイザー派遣事業で多くの地域を訪れたが、 かつては、地域が大切にすべき価値について、筆者らの指摘と地域の人たちの認識に違いがあるのが普通だった。しかし最近は様々な交流が積み重ねられてきたおかげで、 その違いがかなり解消されてきたように思う。自分たちの持つものが広い世間に通用するものかどうかは、ひとりよがりの眼ではなく、普遍的なまなざしで見る必要がある。 農山村の人は地域に生きる貴重なワザを持っているが、これに交流によって普遍的なまなざしが加われば、何を大切にし、何を変えなければいけないかが見えてくる。これこそ成長であり、 交流は相互の成長を喚起するということを、筆者は繰り返し述べてきた。
かつて旧国土庁時代から、大都市の学生を2~3週間地方に派遣する、通称地域づくりインターン事業が10年近く実施され、筆者は世話人を務めたが、そこでの筆者の持論は、あまり有能ではない学生であっても、 その学生をいかに面倒見るかで、今まで地域になかった相談事が起こり、学生の面倒を見る中で地域の人が成長するという価値があるというものであった。実際、その事業を総括した書物からは、 地域の人と訪れた学生のその後の成長がありありと見える(宮口ほか編著『若者と地域をつくる』原書房)。初期にインターン事業にかかわった学生が、 今や地方を支える立派な人材に育っていることにも注目されたい。 近年農山村に関する著作を世に問うている図司直也・佐久間康富・筒井一伸・嵩和雄・古川大輔の各氏らはいずれも何らかの形でインターン事業に参加した面々である。
若者を地域に送り込むNPO法人地球緑化センターの〈緑のふるさと協力隊〉はすでに22期を数えているが、さらに強力な地域への人的活力の注入のための制度として、総務省は〈地域おこし協力隊〉を創設した。 外部で育った若者が地域に住み、様々な活動をしながら定住を目指す画期的な事業であるが、若者が新しい活動で地域に活力をもたらす可能性とともに、この若者をいかに支えるか、 いかに定住の道をつけるかという地域の側の動きが、地域をいい方向に変えていくと筆者は考えている。まさに交流による相互成長である。地域おこし協力隊などで地域に入る若者は、 最近〈地域サポート人材〉と呼ばれている(図司直也『地域サポート人材による農山村再生』筑波書房)が、逆に、地域が人材をサポートすること自体が、地域の成長につながるのである。
なお筆者は、10年以上前に、この週報に「一集落に一カフェを」というコラムを書かせてもらった。カフェのようなオープンなたまり場があれば、そこでいろんな出会いがあり、交流が生まれやすい。 外部の人が気軽に立ち寄り、そこに思いがけない交流が生まれたりすることも、地域の人の成長に結びつくという指摘である。この数年各地で、地域おこし協力隊が関わっているものを含めて、 カフェのような場が多く生まれていることは、大いに喜ばしいことである。
多くの農山村では、相当高齢化が進んでいても、自分の土地で小さな農のワザを発揮する生活は、まだまだ健在である。 しかしこのままでは20年も経過すれば消えてなくなる集落も少なくないという状況にあることも確かである。そのような地域に、少数であっても元気な若者が移り住み、土地や資源を活用する手立てが生まれれば、 地域は都市とは異なる価値を持つ暮らしの場として活かされることになる。土地や資源を現代流に活用する暮らしが生まれれば、たとえ人口という数はわずかであっても、 都市にはない存在価値を発揮することができるのである。農山村の方々はあらためてそのような認識と希望を持っていただきたい。
農山村に向かう若者はまだまだ少数派ではあるが、昨年度に2600人を超えた地域おこし協力隊員を含めて、小田切氏らがいう「田園回帰」のうねりは着実に高まっている。その理由の一つに、 近年のわが国の都市生活に格差が目立ってきたことがあると思う。驚異的な経済成長を続けた時代を含めて、20世紀には格差という言葉をあまり耳にしなかった。 都市では明日のためにみんなが同じように頑張るエネルギーが満ちていたし、若者が流出した過疎地域でも、道路工事や植林による兼業収入で、生活はかなり安定していた。
しかし今やグローバル経済の進行の中での市場原理の貫徹が図られる時代となり、大都市では、忙しさと格差がありありと見えるようになった。そしてその一方で、田舎暮らしの良さを伝えるTV番組も、 ある時期から増えてきた。大都市に人間らしさを感じ取れないことを重く見る若者が、田舎に住んでみようと考える状況がはっきりと生まれていると言える。
農山村に住み着いた若者がまず感心するのが、「田舎の人は何でもできる」ということである。大都市は完全な分業社会であるが、農山村では、極めて多くの手仕事を身につけている人が多い。 小屋ぐらい建てる人はいくらでもいる。地域おこし協力隊員がこのことを楽しく描いた書物もある(水柿大地『21歳男子過疎の山村に住むことにしました』岩波ジュニア新書)。ということはまた、 今の農山村は多彩なワザを持つ高齢者によって、穏やかな暮らしの場として維持されているのであって、一般的には将来のさらなる人口減少は避けられないということでもある。 したがって次の世代がこの価値ある暮らしの場を継承するためには、必要なワザを継承しつつも、最初に述べたような、 土地と人材を含む資源を新しいワザによって活用する「先進的な少数社会」をつくり上げていく必要がある。
地域生活は、経済と暮らしを支える社会的なしくみで成り立っている。経済的な面でいえば、単純な大規模化が困難な農山村においては、農業の6次産業化はもはや必然であり、いかに自分の取り分を増やすかである。 農産物の直売施設も増えたが、ここでも若い世代を活用する新しい工夫の上乗せが求められる。若い世代は、手仕事をすぐに身につけることは困難であっても、パソコンやSNSを駆使することによって、 小さなビジネスを成り立たせる可能性は十分にある。都市と違って、半農半Xといわれるように、小さなナリワイの組み合わせが可能であることも心強い。さらに、少数化した社会では、 ツーリズムの育成が重要であり、その1人当たりの経済的効果は大きい。農家民宿の開業にチャレンジしている地域おこし協力隊員がいるが(奈良県川上村)、空き家の活用としてもすばらしいことだと思う。
暮らしを支える社会的なしくみとしては、多くの地域で、商業施設やガソリンスタンドの撤退が相次ぎ、これに対処するために、小学校区などの地区の住民が結集して、 商業施設やガソリンスタンドの経営に踏み切ったところがすでにかなり存在する。お年寄りの移動の面倒を見るしくみなども含め、一つの集落では解決できない問題を、 旧も含めた小学校区などで対処する方向を普遍化するために、総務省過疎対策室では〈集落ネットワーク圏〉を設定して新たな地域運営組織を育てることを推進している。 これは〈まち・ひと・しごと創生総合戦略〉の〈小さな拠点づくり〉に重なるものであるが、ひとまわり大きな地域で支え合う人のつながりを重視した表現になっていると理解されたい。
そして、多くの農山村で、所有者の意向によって空家の活用が進まない状況があると聞く。極論ではあるが、筆者は、自ら管理できない建物や土地は準公共財と考えたい。 それを何らかの処置によって資源として活用できるかどうかは大きな課題であり、行政の着実なリードによって、その活用が進むことを願うものである。魅力ある先進的な少数社会とは、戸数や人口が減っても、 そこの土地や資源がいい形で活用され、充実した日々が過ごせる場をいうのだということを、関係者は肝に銘じてほしい。高齢化が相当進んだ状況にあっても、そのような姿勢の延長上に、 それこそ年1%の移住を実現する取組みを重ねる中で、希望が見えてくる(藤山 浩『田園回帰1%戦略』農文協)。
このような外部からの移住を実現するために、移住者に対して、地元自治体は様々な優遇措置を講ずるようになった。このこと自体は必然的な措置であると考えるが、 人のあたたかさなどをも含む地域の価値づくりが前提であることを忘れてはならない。そして一方で、IターンのみならずUターンを増やす手立ても大切であろう。特に小規模自治体では、 流出している人材の情報をキャッチすることはそんなに困難ではないと思われ、優遇策に加えて、直接のアプローチを試みることもあっていいのではなかろうか。
本稿執筆中に、小田切・筒井編著『田園回帰の過去・現在・未来』(農文協)を手にすることができた。ここには移住者自身の執筆を含め多くの移住者の体験談が満載されており、 移住者が次の移住者を引き寄せる、いわゆる「人が人を呼ぶ」状況がありありと語られている。地域の活力を人口の増減という単純な数だけで考えてはならないことが、はっきりと示されているといってよい。
最後に、IT環境など、時代にふさわしい普遍的な環境を整える一方で、都市にはない暮らしの場としての価値づくりを積み重ねることが農山村の地域づくりの基本であることを、あらためて強く指摘しておきたい。
宮口 侗廸(みやぐち としみち)
早稲田大学教育・総合科学学術院教授、文学博士専門は社会地理学・地域活性化論
1946年富山県に生まれ、東京大学で地理学を専攻、同大学院博士課程に学び、早稲田大学教育学部に勤務、1985年教授。教育学研究科長、教育・総合科学学術院長を歴任、現在に至る。
総務省過疎問題懇談会座長、富山県景観審議会会長、富山市都市計画審議会会長などを務める。富山市に住み、地方と東京を見つめながら多くの地域を訪ねる暮らしは30年になる。 全国町村会道州制と町村に関する研究会委員。
〔著書〕『地域を活かす-過疎から多自然居住へ-』(1998、大明堂)『地域づくり-創造への歩み-』(2000、古今書院)『新・地域を活かす-一地理学者の地域づくり論-』(2007、原書房)ほか。