早稲田大学名誉教授 宮口 侗廸 (第3315号 令和7年4月7日)
交流という言葉は、地域づくりという動きが活発になった1990年代に盛んに使われるようになった。筆者はそのころにまとまった交流論をおそらく初めて主張した(『地域づくり読本(地域活性化センター)』所収)。交流とは、「違った系統のものが入り交ったり、その間に人の行き来や交渉が行われること」であるが、かつての日本社会は、縦割り社会と言われたように、それぞれの系統の間にあまり交流がなかった。
少子化の中で今や大きな都市でも人口が減少するようになったが、かつては人口が増える都市部と減少を続ける過疎地域に二分され、後者の自治体で盛んに実行されたのが都市農村交流であった。都市の人々の眼が農山村の何に価値を見出すかが、地元の人にとってはまさに交流からの学びであり、地域の人たちが力をつけることに大いに貢献したと思われる。
いまあらためて交流の価値を唱えるのは、最近のわが国において、短絡的な殺人事件等があまりにも多く発生しており、それが現代人の交流の足りなさに関わっていると考えるからである。まわりに交流する人が多ければ、自分の異常な状態について気がつくような会話も生まれ、事なきを得るであろう。この背景には、漫然とした都市化の中で孤独な人が相当生まれていることがあろう。
それにSNSの急速な普及が輪をかけているように思う。SNSによってコミュニケーションそして交流が広がると考える向きもあるかもしれないが、遠くの知らない人とのSNSによるやり取りは、極めて安易にでき、あまり成長とは結び付かないように思う。
本来違う系統の人との真剣なやり取りは、簡単に通じないことや違和感等があって多少面倒なことであり、それが自らの成長をもたらす。これがそもそもの交流の価値である。便利な道具の使用が、人の力を育てるわけではない。SNSの普及が、むしろ人と人の直接のコミュニケーションの機会を減らしている可能性もある。
自治体で煩瑣な事務の処理や住民との連絡にSNSを活用することは当然必要であるが、SNSでは済まされないことも多くあるはずである。特に小規模な町村では住民との直接のやり取りが可能であり、そこから職員と住民が、互いを育てるような交流も生まれる。町村は、大きな都市とは別の、孤独とは無縁の人間社会としての価値を育てるべきだというのが筆者の持論でもある。交流の意義に関連して、このことをあらためて町村関係者に訴えておきたい。