▲熊町小学校の教室風景;2023年7月21日撮影
(写真提供:西村 幸夫氏)
國學院大學まちづくり学部長 西村 幸夫(第3311号 令和7年3月3日)
ごくあたりまえの小学校の放課後の風景にも見えるが、この写真は2011年3月11日の東日本大震災・福島第一原発の事故から12年後の大熊町立熊町小学校(福島県)の教室の様子である。発災直後、ランドセルも持たずに避難しなければならなかった熊町小学校児童の様子をまるで克明なスナップショットのように凍結して物語っている。地震当日、在籍していた児童約330人は、まず校庭に避難し、そのまま学校を離れ、避難指示が出た翌12日には町外に退去している。
この場所はその後、警戒区域、帰還困難区域、そして中間貯蔵施設の用地とされ、現在に至っている。この間、立ち入りの出来なかった熊町小学校は2024年2月に3日間のみ一時開放され、当時の生徒たちは一部の私物を持ち帰っている。したがって写真に映っているのは、発災当時の風景そのままではない。しかしそれでも当時のあわただしさは十分に伝わってくる。
現在、大熊町では文化財保存活用地域計画を策定中である。筆者はその協議会のメンバーであるため、この写真の現場に立ち会うこととなった。全町避難を余儀なくされた自治体が文化財保存活用の地域計画を立てるということは前代未聞だが、震災・原発事故以前のあたりまえの日常自体が、大切な記憶であり、地域づくりの手がかりであるという考えから、計画づくりが進められている。
熊町小学校の場所は中間貯蔵施設用地の一部となってしまったが、建物を取り壊す計画は現在のところない。むしろ、原発事故とその後の対応の世界史的な教訓の場として、うまく後世に伝えられないかについて議論が進められている。ただし、教室内の風化しやすい私物を含め、帰還困難区域内の建物全体を町単独で保存するのは、なかなか荷が重いのも事実である。世界から知恵と熱意を集め、何とかうまい解決策を見出したい。チェルノブイリにもスリーマイルにも、こうした施設はないらしい。広島の原爆ドーム、長崎の平和祈念像に次ぐ世界的なモニュメントにもなりえるのではないか。
なお、熊町小学校はその後、ほかの町立小・中学校と統合して、2022年4月に大熊町立学び舎ゆめの森というとてもモダンな複合施設として、かつての校舎の位置から西へ約2.8kmのところに開校している。