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「観光」と「咸臨」の季節 ―故渡辺貴介先生の思い出

印刷用ページを表示する 掲載日:2024年6月17日更新

國學院大學 観光まちづくり学部 教授 梅川 智也(第3283号 令和6年6月17日)

​ また新学期が始まった。最初の授業で必ず紹介してきたこと、それが「観光と咸臨」の話だ。つまり、「観光」はまちづくりの“目的”、「咸臨」はまちづくりの“進め方”を示しているのだと。

 これを教えてくれたのは、かつて東京工業大学で教鞭を執られ、若くして亡くなられた渡辺貴介先生だ。懇親会などお酒が入った席でのスピーチで、史実とは異なるかもしれないがと前置きしながら、いつも楽しそうに我々に話してくれた。

 先生曰く、江戸時代の末期、長崎海軍伝習所の総監理・永井尚志が二隻の船に名前を付けることとなった。オランダ国王から一隻は贈られたもの、そしてもう一隻は購入したものである。その二隻に「観光丸」と「咸臨丸」と命名したのであり、元々これらはペアの言葉なのだと。

 その二つはいずれも中国の古典・四書五経の中の「易経」を出典とする。「國の光を観るは、もって王に賓たるに用うるに利し」に由来する「観光」とは、「国の光を観る」あるいは「国の光を観せる」という意味で、国や地域の宝を創り、それを人々に観てもらうこと、これはすなわち、まちづくりの「目的」を意味すると。

 一方、「咸臨」という言葉は、「咸じて臨めば、貞にして吉なり。とは、志正を行えば也」であり、その意味は、「正しい志を持って事に当たるべし」、「さすれば、その姿は他者を感動させるべし」、「感動を呼ぶような事業は、必ず良い結果を導びかん」と三段論法で解釈すべきで、これはまちづくりの「進め方」を意味するのだと。

 史実をたどると、嘉永6(1853)年6月、ペリー提督が浦賀に来港し、開国を求められた江戸幕府は、近代的な軍艦の必要性を痛感し、慌ててオランダに二隻の蒸気軍艦を発注する。しかしながら当時のオランダはクリミア戦争勃発のため、すぐに輸出できなくなり、代わりに嘉永7年7月に長崎に入港する軍艦「スンビン」を使って海軍の初歩練習をしてはどうかということで、13代将軍徳川家定に献呈後、翌年の安政2(1855)年に「観光丸」と改名され、幕府海軍の練習船として使われた。そしてオランダに発注された二隻のうちの一隻「ヤパン」は、安政4年8月、長崎港に到着し、日本側に引き渡されると艦名を「咸臨丸」と変更、長崎海軍伝習所の練習艦となった。なお、翌年の安政5年、「エド」が咸臨丸の姉妹艦として長崎に入港、それが朝陽丸である。

 多少、史実とは異なるかもしれないが、観光まちづくりを志す我々にとって、先生の解釈は独自のセンスがあり、私も毎年楽しく教えている。