ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > コラム・論説 > 農村の社会的豊かさへの出会い

農村の社会的豊かさへの出会い

印刷用ページを表示する 掲載日:2023年4月17日

早稲田大学名誉教授 宮口 侗廸 (第3237号 令和5年4月17日)

わが国の農村社会は、つい最近まで長い年月、集落というまとまりで連綿と続いてきた。もちろん貧富の差はあり、時には冷害に見舞われることもあったが、地域社会として極めて長い年月生き抜いてきた。米作りを基盤にしたその強さの背景に、水の豊かさと暑い夏という自然の恩恵があることはもちろんであるが、社会としても様々な仕組みが考え出されてきた。

筆者がわが国の農村集落の地域社会としての強さを改めて実感したのは、四半世紀前に富山県小杉町(現射水市)の町史の近代部分を執筆した時のことである。農家を訪ねて見せてもらった文書の中に、昭和になって発行された支配地券というものがあった。地券とは明治初期の地租改正令に基づき、土地所有者と地価を明示して県が発行したものであるが、わが国の特に平野部の水田農村では、地租改正以降農地の売買が容易になり、地主と小作人が誕生していた。この支配地券は小作人を農地の支配人と位置づけ、農地を借りる権利を守る、いわば小作地券とも言うべきものであったが、これによってその権利を地主の許可なしに売買することができたという説明は、初めてこれに出会った筆者にとって大変な驚きであった。実際、その裏面には売買の裏書があった。これは小作人同士が、状況に応じて土地とお金を融通できたことを示し、わが国の村人が生き抜くために生み出した社会的な仕組みの一つであると筆者は理解した。

筆者は助手のころにイランの農村を訪れる機会があったが、そこでの地主小作関係はかつて極めて厳しいものであった。そもそも農業には水が必要で、砂漠のような土地では資産家が投資して地下水を探して農地になる土地を選び、小作人となって農業をする人を集める。多くの場合水は山麓からカナートと呼ばれる地下水路で畑に引かれるが、水主イコール地主であり、地主-小作関係は絶対的に強者と弱者の関係であった。

イランではその後農地改革も実施されたが、そういう極端な地域を知ると、山々から流れる無数の河川を巧みに利用して水を引き、共同作業で水田を耕作してきたわが国の農村社会の支え合いについて、やはり忘れてはならないと思う。そのような基盤がわが国を支えてきたことが、日本の人々が世界から評価される気質を育んできた。過疎化の進行の中にあっても、人と人の支え合いの今の時代にふさわしい形を、ぜひ地方から創造していっていただきたいものである。​