ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > コラム・論説 > 地域を見る「眼差し」をつくる

地域を見る「眼差し」をつくる

印刷用ページを表示する 掲載日:2022年5月23日

東洋大学国際学部国際地域学科教授 沼尾 波子(第3200号 令和4年5月23日)

見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある。安部公房の小説『箱男』にこんな一節がある。私たちは他者との関係の中で仕事や暮らしを営むが、そこにおいて、見ることと見られることは時として等価ではない。見たい人、見られたい人、様々である。なかでも、自分に自信が持てないとき、見られることには臆病になりがちだ。

地域振興を考えるとき、自分たちの地域をよく見つめて、その特性を知ることが大切だと言われる。どんな地域にも魅力がある。それに気づくべく、しっかり地域を見つめようと説明される。だが私たちは案外、地元のことをよく見ていないし、また外部からこの地域がどう見えるのか、またどう見られているのかということを確かめられていない。

日々の思い込みから少し距離を置いて、客観的に、だがしっかりと地域を見つめる方法はないものか。そんなことを考えていたとき、北海道東川町を訪問する機会を得た。

東川町は1985年に写真の町宣言を掲げた。全国の高校生が集い開催される写真甲子園、国際写真フェスティバルなど、地域の美しい景色、そこで暮らす人々を撮ることが日常の中にある。町には写真ギャラリーがあり、キュレーターが配置されている。

この取組みが興味深いのは、単に写真撮影イベントの開催や、町で撮影された写真を展示するに留まらないことだ。ファインダーを通じて日常のある1コマを切り取るという作業、切り出された日常の1コマや、時にはそこに写された自分自身に対峙することで、地域の暮らしや自分自身を客観的に見ること、見られることへの眼差しを作りだしている。

日常の何気ない1コマであっても、それをどう切り取るか、またそれをどのように焼き付けるかによって、出来上がった写真は全く違った印象を与えるという。小学校の総合的な学習の時間では、子どもたちが撮影した日常の風景や身近な人物が、専門家によりドキリとするような景色として切り出され、そのことに、子どもも大人もびっくりするという。

一連の経験を経て、人々は見ることにも見られることにも慣れてくる。また、1つの風景を見ていても、それは見る人によって、多様な見え方をすることに気づくとき、個性の尊さや、多様性の受容という空気が生まれるのだと思う。東川町が多文化共生でユニークな政策を進めていることは、写真の町の取組みともあながち無関係ではなさそうだ。

撮る・撮られるという行為を通じて、自分と他者との距離が変わり、地域に対する眼差しが変わる。地域振興を考えるときに、一番大切でもある地域をよく見て地域を「知る」という行為を前に、写真という手法は大きな可能性を持っていると感じた。