民俗研究家 結城 登美雄(第3184号 令和3年12月20日)
私はこの30年、東北の農山漁村を中心に、800ほどの集落を訪ね歩き、そこに生き暮らす人々から村おこし、あるいは地域づくりを教えてもらってきたが、その中でも私が最も足繁く通って学んだ村は、岩手県久慈市山形町木藤古集落である。ここは日本有数のヤマセ地帯なれば自然条件極めて厳しく、農林業・製炭業は後退を強いられ、過疎化の荒波に翻弄され、「向都離村」の不安に揺れていた。確かにここは山間僻地、今ならば限界集落と呼ばれるのだろうが、それでも生まれ育ったわがふるさとであり、何代にもわたって人間が生きられた場所である。何とか踏みとどまる道はないのか。五戸18人の村人が連日連夜、炉辺の話し合いを積み重ね、人に生き方があるように、村にも生き方があるはずだと、村づくりの目標を模索し、試行錯誤の果てに、それをマニュフェストにまとめあげた。
《この村は与えられた自然立地を生かし、
この地に住むことに誇りを持ち、
ひとり一芸、何かをつくり、
都会の後を追い求めず、
独自の生活文化を伝統の中から創造し、
集落の共同と、和の精神で、
生活を高めようとする村である。》
宣言文を掲げただけではない。わずかな水でも大きなエネルギーを生み出す昔ながらの先人たちの知恵、精米製粉具「バッタリー」(水唐臼)を古老の力を借りて復活させ、それを新たな村の名「バッタリー村」と名付けた。そしてこのマニュフェストの言葉は35年たった今でも私の中では少しも輝きを失っていない。それどころか全国から若者たちが村を訪ね、泊まり込みながら農山村に生きるための大切なことを実践しながら身に着ける、学びの村になった気配すらある。コロナ禍のもと、これからの社会のあり方が見えない中にあって、東北の僻地の村が模索した実践の中に、大きな再生のヒントがあるのではないか。