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都西部の村で村民が絶滅危惧種の染料「ムラサキ」栽培60年余 地元檜原小の総合学習で教え、次世代にも継承

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年8月9日

島根県立大学名誉教授 田嶋 義介(第3169号 令和3年8月9日)

初夏から夏にかけて白い花を咲かせる多年草のムラサキは、万葉集にもその名が出るほど歴史は古い。暗紫色の根が漢方薬のシコン(紫根)や草木染の染料として重用され、江戸時代には青みがかった紫色が「江戸むらさき」として珍重された。しかし、種の発芽率が低く、明治時代以降は合成染料の登場により、商業的価値を失い、ムラサキも環境省の絶滅危惧種になってしまった。

そのムラサキ草が偶然に発見されたのは1957年。都西部の檜原村(人口約2100人)の浅間尾根にある小沢共有地・松生山で植林の下草刈りに同行していた植物愛好家が寝転んでいたところ、ふと目にとまった。何本か抜いて持ち帰り、仲間の植物愛好家に見せたところ、ムラサキだ、とわかったという。

ムラサキの発見後、村内で紫根染講習会や草木染愛好会などが動き出した。1999年に草木染愛好会から移行した草木染同好会がムラサキの種を受け継ぎ、栽培・染色活動をした。これは地域資源発掘を目的に2008年に発足した東京ひのはら地域協議会に引き継がれた。

ムラサキの栽培には苦労した。近くの都立農林高校園芸科を出て東京の短大を経て、温室農家で修業後に村に戻り、園芸を始めた高橋亨氏(74)が栽培の相談役だった。高橋氏は「ムラサキの種は収穫したら、すぐ蒔かないと休眠に入るなど発芽しにくい性質がある」と話し、種を発芽させるのに、5年ほどかかったという。ヒントは、ムラサキを栽培した人に、11月ごろに種を蒔いて雪をかぶると、春には芽が出てくると聞いたことだった。試行錯誤の末に、湿らせた砂を布に入れ、その中に種を入れてくるみ、それを瓶に入れて、冷蔵庫で保菅すると、発芽した。2000年ごろのことだった。栽培が広がった。

2018年、地域協議会を引き継いでひのはらムラサキプロジェクト(事務局、丸山美子)が発足。檜原小学校から染色体験学習の授業依頼を受け、檜原小の総合学習時間に「ふるさと檜原学習」が始まった。3年生を対象に丸山さんや高橋氏が講師をし、2月の種まき、移植、種取り、年末の紫根採取までムラサキ栽培の1年を体験させた。児童たちは「まるで宝さがしのようで楽しい」などと興味深々。翌年8月の「村の滝まつり」では、小学校の「ムラサキの鉢植え販売テント」が設けられ、村民の関心を集めた。

2019年には、農水省の第6回「ディスカバー農山漁村の宝」に高橋氏を推薦する形で応募。高橋氏が個人部門で、在来種で絶滅危惧種の「ムラサキ」の栽培、育成、活用を行う伝道者、東京に現存する在来資源の価値を広くPRした、として選ばれた。