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五箇山との半世紀

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年1月25日

早稲田大学名誉教授 宮口 侗廸 (第3146号 令和3年1月25日)

昨12月5日、今は合併して南砺市になっている富山県の五箇山の二つの合掌造り集落、相倉(旧平村)と菅沼(旧上平村)の、国史跡指定50周年と世界文化遺産登録25周年を祝うフォーラムの記念講演に呼んでいただいた。実は筆者が卒業論文のために初めて五箇山を訪れたのも、史跡指定のあった50年前である。感慨深いものがあった。そしてその年は最初の過疎法ができた年でもあり、それ以後、わが国の過疎山村がどういう方向をめざすべきなのかを考え、主張して、半世紀が過ぎた。五箇山はまさにその原点である。

江戸時代の五箇山は加賀藩と特別な関係にあり、塩硝(火薬)と和紙が藩に納められていた。加えて養蚕が盛んで、江戸時代に人口が約2倍に増えている。和紙は雪の上で楮をさらす冬の産業で、合掌造りは一階に和紙の作業場があり、広い二階は養蚕に、土間や床下では塩硝がつくられるという合理的なつくりでもあった。

流刑地でもあったが、五箇山は百万石の雄都金沢からそんなに遠くはない。そこが独特の歩みをたどったゆえんは、偏に雪による交通の途絶にあった。50年前の冬に訪れたときは、庄川のダム湖を二つ船で乗り継ぎ、最後はササ舟にうずくまるようにして五箇山にたどり着いた。その3月には最初のダム湖まで五箇山側の除雪が可能になって船は1回で済むようになり、逓送隊によって峠越えで受け渡しされていた郵便物が船で受け渡しされるようになったが、峠越えのトンネルが完成して平野部との冬期の往来が可能になるまで、それから13年を要した。

その冬は雪が多く、相倉の合掌造りの民宿で数泊して、夜も数件の家を聞き取り調査に歩いたが、目と鼻の先にもかかわらず、吹雪で帰る方向が分からなくなる夜もあった。当時は道路工事と植林の投資が多い時代で、冬期の失業保険もあり、若者は流出していたが、収入はまずまずだったと思う。ただ過疎という言葉をすでに多くの人が知っていたことは意外で、将来への不安を口にする人も多かった。

旧平村では1979年から、五箇山山村研究センターの幹事を10年間務め、毎年のフォーラムの企画と山村研究年報の編集をお任せいただいた。今思えばかなり先駆的な事業で、ほとんど独断の作業であったが、筆者を大いに成長させていただいたと思う。記念フォーラムで出会った相倉の区長さんは筆者が訪れたとき小学校6年だったそうで、あらためて50年の歳月を実感した日となった。