早稲田大学名誉教授 宮口 侗廸(第3102号・令和元年11月25日)
この数年、大都市の若者の地方の農山村に対する関心が高まり、実際の移住が増える中で、田園回帰という言葉がすっかり定着してきた。筆者はこの状況を喜びつつ、この週報に、わが国の農山村が本来的にもってきた価値について、それを強調する一文をたびたび寄稿してきた。それは世界の中で稀に見る高い土地生産性を誇る水田農業と集落という地域社会を基盤に、お祭りなどの行事を含めて長い年月安定した暮らしの場となってきた、都市にはない農山村の価値を、町村の当事者にあらためて認識してもらいたかったからである。
世界に例のない経済成長のもとで都市の成長が続き、農山村の過疎化が続く中で、かつて住民自体が、都市に対して自らの地域が劣るような認識を持ち、望むべくもない同じような都市化を願う時代があった。しかし人口減少・高齢化の流れは止まらないものの、いま地域に暮らす人たちは、総じて自分の地域に誇りを持つようになってきている。それは、都市の人との出会いやメディアの多くの情報が行き交う中で、地域はそれぞれ多様であり、自分たちには都市にはない価値があるのではないかということが、農山村の人たちに少しずつ認識された結果であろう。その意味で全体として、他人の指摘で自らの価値に気づく「交流の鏡効果」があったことは否めない。
近年地域おこし協力隊の参入によって、鏡効果はますます強まっていると思う。都会育ちの若者は、熟練の技以前に、薪割りなどの農山村の日常の動作にすら感動するからである。いまや彼らにとっては農山村は外国に近い存在になっているのかもしれない。
しかしそれで喜んでいるばかりでいい未来ができるわけではない。本稿では、小さな自治体であるが故にこそめざすべき、都市にはない地域社会の豊かさの創造について論じ、町村への期待としたい。
筆者は大学院生のころ、山村の集落単位の戸別の訪問調査に基づいて、暮らしを支える仕組みがしっかりしている集落とそうではない集落では、過疎化の度合いが大きく違うことを見出し、「過疎地域における特例的集落」というテーマの論文を書いたことがある。これは地方の雑誌だったのであまり知られていないが、今でも筆者が地域社会の社会的価値を重視する出発点になったと思っている。
筆者は20年ほど前に上梓した『地域を活かす-過疎から多自然居住へ-』という著書の中で、一つの章を「社会論的な豊かさの創造に向けて」とした。それは、地域活性化といえばすぐに経済的な活性化を思い浮かべる人が多いが、それと共に、むしろそれ以前に、暮らしの場としての地域社会が暮らしやすい居心地のいい場になっているかどうかを問うべきだと、考えたからである。活性化を、いきいきとした関係の中で新しいものが生まれやすい状態と考えるならば、社会論的活性化という発想が必要だと今でも考えている。
この主張は当時あまり取りざたされなかったようであるが、その後の過疎・高齢化の進行によって、高齢者の足の確保や日常の買物など、生活上の困難を解決または緩和するための社会的な試みが多くの地域で実行されるようになった。様々な主体による過疎地有償運送や、診療所の出張診療などに代表されるこれらの動きは、基本的に福祉の問題と考えられがちであるが、これも社会論的な豊かさへの一歩だと思う。自治体として暮らしやすさを高める仕組みづくりを進めると同時に、地形によっては孤立しやすいそれぞれの地区の暮らしに目配りをすることは自治体行政の基本であるからである。
そしてさらに、形骸化した地域行事の見直しとか、時代にふさわしい行事や集会の創設によって、その地域に暮らすことの価値を高めていく作業が、いわゆる守りの福祉を超えて、社会論的な豊かさの積み上げであると考える。
町村は基本的に小規模自治体であるから、地域の課題は行政当局にキャッチされやすいが、基本的に財政にゆとりがないという弱みがある。しかし小規模ということは、日頃からどこにどういう人材がいるかという情報が自治体関係者に知られているということであり、これが小規模であることの強みに他ならない。過疎化の進んだ地域で今頑張っている人に、地域愛のない人はいないであろう。暮らしを支える新しい仕組みをつくるのに、誰にどのように働いてもらえば財政に見合う仕組みができるか、いい形での話し合いの場をつくることが肝要だと思う。もちろんそこには、公的な支援の制度を熟知した自治体職員の働きが不可欠である。
実際には生活上の困難を克服する仕組みづくりは、すでに各地で展開してきた。平成22年の過疎法改正で導入されたソフト事業への過疎債充当も、各地で活用されている。しかし筆者は、小規模自治体としての町村に、小規模であるが故の社会論的な豊かさを、さらに上乗せして行ってもらいたいと思う。これは、都市にはない価値をさらに高めるということでもある。
農山村の生活の基盤は集落であり、冒頭に述べたように長い年月にわたって、生産活動のみならず様々な行事や集まりを通して暮らしを支えてきた大きな価値を持つ。ただそれが連綿と安定的に受け継がれてきただけに、かつてはその運営は必ずしも闊達なものではなく、新しい取組が生まれにくい状況があった。その延長上に世帯数減少と高齢化が続くならば、弱体化の中で過去の慣習が重荷になるだけという可能性も強くなってきた。集落などの地域社会の仕組みを、身軽で闊達なものに変えていくことも、社会論的な豊かさの上乗せだと思う。
そのためには集落の単位そのものを見直すことも必要である。私どもの過疎問題懇談会では、過疎地域において、(旧)小学校区などをひとくくりにして暮らしを支え合う仕組みをつくる集落ネットワーク圏と、その活性化を目指す新たな地域運営組織の育成を提案してきた。この提案も、社会論的豊かさの地域への上乗せと考えている。新たな地域運営組織が置かれるのが、まち・ひと・しごと創生本部の言う小さな拠点と考えればわかりやすい。そしてこの地域運営組織は、(旧)小学校区と各集落の区長以下の組織が縦につながるのではなく、地域全体を横断する形で分野別に部会を設け、世帯代表ではなく女性や若者を交えた個人の参加で話し合いを行う形が望ましい。移住者や地域おこし協力隊にも積極的に加わってもらうべきである。
社会論的な豊かさをつくり出すには、このような制度的な地域運営組織に限らず、地域の性格と現状に合わせていろんな手法があり得る。すでに各地でさまざまな形の試みが進められているが、ここでは最近訪れた中から、違ったタイプのものを3例紹介しておきたい。
(1)自治会を統合した高山地区公民館(鹿児島県日置市高山地区)
この事例は町村の事例ではないが、われわれが理念的に考えた地域運営組織の典型であると言える。高山地区は日置市の一部過疎地域である旧東市来町の旧高山小学校区にあたり、世帯数100余り、人口約200人の、山間に集落が散らばる地区である。合併で誕生した日置市では小学校区単位に地域づくりの拠点として地区公民館を置くことを決めたが、世帯数減少・高齢化に危機感を持った高山地区は、話し合いの末、旧小学校区の6集落の自治会そのものを統合して高山自治会を発足させた。
さらにワークショップや勉強会を重ねて3年後には地区全員が会員となるNPO法人がんばろう高山を設立し、これが地域運営組織である地区公民館の実働部隊としてさまざまな活動を担っている。旧校舎は地区公民館であると同時に宿泊研修施設の高山地区交流センターでもあり、その管理に加えて6集落の秋のイベントの参加費の事務等を担い、市の交付金による公用車で街中への買い物ツアーを実施、高齢農家の野菜を集荷し特売センターへ出荷するなど、地域の生活を強力に支えている。移動や出荷のドライバー、交流センターでの食事の提供等には決まった賃金が支給され、野菜の売り上げに加えて小さな経済循環も生まれていることが、地域を明るくしている。その後小さな直売施設もできた。活動は集落横断の部会制で行われ、踊りの会など集落を超えたグループ活動も生まれている。
この背景には、地域の大小にかかわらずいい形の地域自治を育てようという市長の姿勢があり、高山地区にもそれなりの交付金がある。しかし高山地区での住民の徹底した話し合いとその後のワークショップによる新しい取組の創造が、小さな地域社会の強みを活かして、基本的な福祉を超えた社会論的な豊かさの上乗せを実現したといえよう。
(2)自主発生的な組織の例-和歌山県かつらぎ町天野の里づくりの会-
この会は、小さな旧小学校区で有志により10数年前に誕生した地域づくり団体であり、制度的に出発した地域運営組織ではないが、今や実質的にその役目を果たしている例である。和歌山市から紀の川を100kmほど遡った山あいにあり、なだらかな山々と水田の織りなす穏やかな風景を持つ地区であり、世界遺産の丹生都比売神社と参詣道がある。
ほぼ100世帯の小さな旧小学校区であるが、この会の地区正会員は70名を超える。以前からこの地区の風景に惹かれての移住者がいたが、会の活動の中で移住者はさらに増え、世帯数のほぼ3割になった。県の「企業のふるさと」事業による伊藤忠商事との交流での田植え・稲刈りの農作業研修には、会員は総出で世話をし、その縁でクボタやヤンマーの機械でのソバ畑の拡充を行い、ソバ打ちのイベントも行うようになった。
会は大阪の田舎ぐらしフェアに4年参加し、次に示すようなリアリティのある田舎ぐらしの7ヶ条を配布した。
①現金は要る②プライバシーは無いと思え③農業で飯は食えないと思え④参加を求められる地域行事の多さを覚悟せよ⑤運転免許は必要だ⑥自分の今までの価値観は通用しないと思え⑦自然は時として大きな脅威になる
これらは一見脅しのように見えて、実際は田舎の価値をアピールしているものと筆者は考える。「地域行事の多さ」とか「価値観が通用しない」など、都会で孤独感の中で暮らしていた人にはむしろ嬉しいのではないだろうか。
会は空家の確保などでも移住者に寄り添いながら会への参加を勧め、移住者の大半が正会員になっており、参詣道である町石道の見回りと倒木処理、竹パウダーの糠床製造などの作業は有償である。そして地区にある旧校舎の宿泊施設の管理、農産物直売所、農家民宿、Iターンのソバ屋さん、孫ターンの女性の古民家カフェなどの関係者はすべて会員である。さらに、未就学児の母の会、小中学生の親の会もあってその関係者も会員であり、子育てを含めて暮らしの課題を相談できる関係が重層的に張り巡らされている。若い母親から安心して暮らすことのできる地域という発言も得られたが、これこそがこの地区への移住者が増えた理由だと、筆者は直感した。縦割りではない重層的な関係こそ農山村本来の価値であり、まさに時代に合う社会論的な豊かさが育っていることが実感される。
各地の地域おこし協力隊員からも、田舎の人間関係の率直さに惹かれるという発言を筆者はたびたび得ている。かつて個人が埋没する面倒な人間関係と批判された状況が時代の流れの中でそれなりに進化し、都会育ちからは評価すべきものと受けとめられるようになったと考えるべきかもしれない。いずれにしろ、ある意味で濃い人間関係は今や田舎の魅力の一つと言えそうである。
(3)村がつくった社団法人かわかみらいふ(奈良県川上村)
最後に行政が、集落ネットワーク圏の形成を視野に入れて、奥地集落の暮らしを直接支える仕組みをつくった事例を紹介したい。奈良県川上村は吉野林業発祥の地であり、険しい地形に200年生を超える人工林が卓越する村であるが、大きなダム建設を受け入れてからは、水源地の村づくりを村是としてきた。なおそのモチーフとなった川上宣言は筆者がかつて起草したものである。将来の消滅可能性ということで上位に挙げられた村でもある。
過疎化の厳しい中にあり、特に険しい地形に集落が点在する東部地区の暮らしを守るために、村は一般社団法人かわかみらいふ設立に踏み切った。東部地区は旧中学校区であり、校舎跡地に建てられたふれあいセンターを法人の拠点として、車両2両を移動販売用に購入、ふもとの町のスーパーと提携して食品などを奥地集落まで移動販売し、宅配も行う仕組みをつくった。移動販売はほかの地区にも回るが、行政が主体となって移動販売を始めたのは、おそらくわが国最初であろう。企業としての採算は困難であるにしろ、暮らしを守るという公的な目的の解決への英断と評価したい。この車両に随時看護師が同行して高齢者の健康状況をチェックしていることも頼もしい。かわかみらいふは廃業する村唯一のガソリンスタンドも継承し、村の暮らしになくてはならないものになっている。なおこのスタンドは、自動車の入らない家にも灯油の宅配に応じてくれる。
ふれあいセンターは医師の出張診療の場にもなり、カフェもあり低料金でコーヒーが飲めるほか、有料のコピー機も備えられ、住民が気軽に立ち寄れる場となっている。ホールや大小の集会用の部屋もあり、東部地区の小さな拠点としてその役割を大きく発揮している。この拠点での話し合いが重なれば、奥地に点在する集落のネットワークと住民の横の連携が生まれ、社会論的な豊かさが積み上げられることが十分期待できると思う。
高齢者の暮らしを守るというだけではなく、次世代にそこでの暮らしが支持されるためには、普遍的なインフラ整備の一方で、地域社会としての、都市にはない価値を高めて行くことが重要と思う。人口が増える地域ではいろんなことが成り行きで決まっていった感があるが、特に町村のような小規模自治体においては、顔の見える関係を強みにしつつ、話し合いを重ねて、地域に応じた地域社会のあり方を問い直し、そこに都市ではつくれない社会論的な豊かさを上乗せして行ってほしい。これが筆者の町村への期待であり、同時に、現行過疎法の期限を間近に控えて、わが国は都市にはない農山村の価値をしっかりと守るべきであるということを、次期過疎法の根拠の一つとして主張していきたい。なお、途中で触れた『地域を活かす』という拙著は、この秋「22世紀アート」という出版社から電子復刻されることを付記する。
宮口 侗廸(みやぐち としみち)
早稲田大学名誉教授、文学博士
専門は社会地理学・地域活性化論
略 歴:1946年富山県に生まれ、東京大学、同大学院博士課程で地理学特に社会地理学を学ぶ。1975年から早稲田大学教育学部に勤務、1985年教授、その後教育学研究科長、教育・総合科学学術院長を歴任、2017年退職して名誉教授。国土審議会専門委員、大学等設置審議会専門委員、富山県景観審議会会長、富山市都市計画審議会会長、全国地域リーダー養成塾主任講師等を歴任、現在総務省過疎問題懇談会座長として国の過疎政策に関わる。1985年より富山市在住。
著 書:『地域づくり-創造への歩み-』(2000、古今書院)、『新・地域を活かす-一地理学者の地域づくり論-』(2007、原書房)ほか。