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三遠南信、島々への期待

印刷用ページを表示する 掲載日:2019年5月13日

法政大学名誉教授 岡崎 昌之(第3079号・令和元年5月13日)

久しぶりに静岡県、愛知県、長野県の県境、「三遠南信地域」を訪れた。この地域を訪れると、柳田国男の『島の人生』(昭和26年)の冒頭部分を思い出す。「美濃の東南部の山村をあるいてゐた際に、島内安全といふ文字を彫刻した路傍の立石をみたことがある。島はあの邊では民居の集合、今の言葉でいふ部落又は大字のことらしい」(原文のまま)と柳田は書いている。当時は島と呼ばれた集落が、山中にも沢山存在していたのであろう。

この地域は、県庁所在地からはいずれも遠隔地であり、かつ昭和30、40年代には佐久間ダムなど、県境にまたがる巨大なダム建設があった。それに伴い集落の水没や移転がおこり、急激な過疎化が進んだ。いわゆる“開発”からは取り残されてきた地域である。そこで豊橋市、浜松市、飯田市などの経済団体や自治体が連携し、県境を越えて広域的地域振興を進めてきた。

今回調査で訪れたのは、愛知県豊根村と長野県泰阜村であったが、泰阜村温田駅から豊橋駅まではJR飯田線で3時間かかった。県境の急峻な山間部を走る車窓からは、山林と荒れた田畑、疲弊した集落が目に付く。しかしこの沿線こそ、諏訪湖から始まり、紀伊山地、四国山地、九州阿蘇山地へ繋がる中央構造線の起点にあたる。この断層線は河谷を連続的に発生させ、それが自然の道となり、縄文、弥生時代以来、多くの人や物、情報が流入する基幹的なルートを形成した。豊根村に伝わる「花祭り」やこの地域に広く分布する田楽、念仏踊りなどが残されているのは、このことが背景にある。

豊根村では、毎年3家族を村内に移住させ、2060年に九百人の人口を維持し、児童生徒を百人確保することを目標に、たとえば30年間賃貸したら土地と建物を譲渡する定住促進住宅を建設するなど、若者の移住と雇用策に本格的に取り組んでいる。泰阜村では、地域おこし協力隊修了者が、女性猟師、特産のコンニャク生産の復活などで活躍し、多彩な外部人材が村を支えている。三遠南信自動車道やリニア新幹線への期待も高まるが、さらなる都市への集中ではなく、新しい山村文化が形成され、多くの山中の島々が生き生きと再生することを期待したい。