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一九六四〜観光の「見えない」レガシー

印刷用ページを表示する 掲載日:2019年4月15日

立教大学観光学部特任教授 (公財)日本交通公社上席客員研究員 梅川 智也 (第3077号 平成31年4月15日)

2020年の東京オリンピック・パラリンピックまであと500日を切った。

かつて東京オリンピックが開催された1964年は、わが国の観光にとって大きな節目といえる年であった。名神高速道路が前年に開通し、東海道新幹線がオリンピック直前に開業した。首都高速道路の整備も進み、世はまさに高速交通時代の幕開け、モータリゼーションの本格化により日本人の旅行意識や旅行形態は格段と変化した。また、世界から外国人観光客を迎え入れるため、ニューオータニやオークラ、旧東京ヒルトン、東京プリンスなど本格的なホテルの建設が相次いだ。結果、これまで日本人にとって敷居の高かったホテルの利用が身近なものとなった。

外貨の持ち出し制限緩和によって日本人の海外旅行が自由化されたのも1964年である。我々日本人にとって関所の撤廃により国内旅行が自由化されてほぼ150年、オリンピックを契機にして海外旅行が自由化されてほぼ50年ということになる。

オリンピック開催に向けた社会・経済のダイナミックな動きの一方で、前年の1963年に制定された観光基本法(現在は観光立国推進基本法に抜本改正)は、わが国の観光にとって重要な意義を持っていた。国際親善の増進と国民生活の安定向上という基本的な考え方を明確にすると同時に、観光に対する社会の認識を「物見遊山、遊び」から「生活向上、休養・保健の確保による労働再生産に資するもの」へ、つまり、観光に対する国民の価値観の転換を狙っていたからである。わが国には基本法の名称を持つ法律は教育や農業などそれほど多くないが、なぜ、観光の法律に「基本」が付いたのか。当時、議論されていたのは、観光事業法、つまり事業者、供給側の法律であったが、国民大衆が旅行できる権利を保障する、需要側、国民の側の法律として制定されたことに重要な意味があった。戦争のため1940年頃には不要不急の”旅行は禁止”とされたが、約20年を経てようやく日本人はどこにでも自由に旅行できる権利を得たのである。

こうした一九六四オリンピック開催に伴う観光の「見えない」レガシー。あれから55年、昨年の訪日外国人旅行者数は3、119万人と過去最高を記録し、訪日旅行の自由化は確実に進んでいる。これからの大きな変革の波は、この4月に導入された新たな在留資格・就労ビザ(特定技能)の行方であろう。真に開かれた国として我々日本人の多文化共生に向けた意識改革が進むのかどうか、そして二〇二〇という大きな節目を迎えるわが国にとって、観光を地方における成長戦略の柱にという「見えない」レガシーにして行けるかどうか、その真価が問われている。