ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

旧旧村

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年11月26日

福島大学教授 生源寺 眞一(第3062号 平成30年11月26日)

出張先のビジネスホテルで、朝食時のテレビの画面に目が釘付けになった。北海道を襲った胆振東部地震を伝えた映像で、山林崩落による大量の土砂が農地や建物に覆いかぶさっている。目が釘付けになったのは、それが旧知の厚真町の森と水田のリアルな画像だったからだ。農家調査で何日も現地を訪れた経験があったことが、言い知れぬ強い衝撃につながった。30年以上も前のことなのだが、緩やかな傾斜の田んぼと素朴な風情の用水路が目に浮かぶ。農家のおばあさんの話も忘れられない。ホウソウを植えに行った小学校、現代語に直せば、種痘の接種に集まった小学校でのおしゃべりが、近隣の若き嫁たちの楽しみだったというのだ。

時間の経過とともに冷静さを取り戻してからは、今回のニュースに別の意味での感懐の念を抱くことになった。それは平成の大合併をくぐり抜けて厚真町が厚真町であり続けたことについてだ。そうだからこそ、テレビの第一報が厚真という地名を発信し、それが私自身の衝撃につながったわけである。実を言えば、西日本豪雨に見舞われた被災地にも、かつて調査で滞在した地域がいくつかあったのだが、合併の進んだ市町村の現在の名称が報じられた段階では、かつての訪問先を認識できなかったケースがある。

厚真町は平成の大合併だけでなく、昭和30年代の大合併の際にも、同じ自治体を継続する経過をたどっている。いまの時点で表現するならば、旧旧村が現在もそのまま維持されているわけである。地域社会のまとまりという点で、また、地域の皆さんの帰属意識という点で、旧旧村の大切な役割を改めて認識させられた次第である。外部の人間がとやかく口出しすべきではないなどと言われそうだが、都市の郊外で生まれ育った私にも共有できる面があると思う。

旧旧村が小学校の区域と重なっている場合が多いからである。徒歩による交流を前提とした生活圏という意味で、小学校区は都市近郊出身の人間にとっても、アイデンティティを実感できる空間なのである。