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職員時代の想い出

印刷用ページを表示する 掲載日:2017年10月9日

 群馬県町村会長・甘楽町長 茂原 荘一群馬県町村会長・甘楽町長 茂原 荘一

甘く楽しい甘楽町に生まれ育ち古稀を迎えました。親は農家の長男ですから家業の農業を継いでくれると願っていたのでしょうが、養蚕が衰退し農業が厳しい時代でもあり、役場の職員となり働いていました。

役場では各部署での仕事を経験しましたが、これから養蚕はなくなり(今や富岡製糸場や関連資産は世界遺産です。)、桑畑が不要となり必ず農地が余ってくる。「新規の農特産物の開発」、「都市と農村の交流」を目指し新しい農業振興をとの目的で、昭和58年7月に農林課に開発振興係が新設され、初代の係長を命ぜられました。

当時、群馬県では多くの農業技術及び生活改善の普及員さんがおり、甘楽町を担当する地域班の指導をいただき、桑の跡にはキウイフルーツ、山間地には露地菊、ワサビの陸栽培、雉の養殖など。さらに野菜やこんにゃく栽培、そばのオーナー制度、乾燥芋やリンゴジュース、雉肉の加工、タケノコの瓶詰など各地域にパッチワークのように事業を展開して取り組んでいました。

また、町としても昭和58年認定の新農業構造改善事業「自然活用型」に取り組んでおり、歴史と自然を生かしたまちづくりと都市農村交流を大きな柱としていました。交流ですから相手がいなければなりませんが、幸いにも農林漁業体験協会の紹介もあり東京都北区(人口34万8,012人、平成29年9月1日現在)との自然休暇村交流が試行的に行われ、戦時中甘楽町で学童疎開をした人達に最初に訪れていただき、昭和61年には北区自然休暇村協定を締結、その後順調に交流が続いています。

都会に農産物を売り込む、都会の人たちに来てもらう、農業を体験してもらうなどの取組を進め、昭和60年に農産物直売所「物産センター」のオープンに合わせ、農特産物の販売と直送システムである「城下町ふれあい便」を季節に応じて年5回お届けすることをスタート。朝市の開始、食堂では名物「桃太郎ごはん」の提供なども始めました。今では「道の駅甘楽」(平成23年3月登録)として多くのお客さんで繁盛しています。

さらに昭和63年に北区との合築施工による、農業体験ができる宿泊施設「甘楽ふるさと館」を建設。その後、平成9年に友好都市交流協定の締結にまで発展し、今では北区のみなさんを始め、夏休みには子供たちのスポーツ合宿で町内は大賑わいです。

そしてドイツのクラインガルテンに憧れ、いつかはとの思いを持ち続けた市民農園の建設です。産業振興課長の時代、平成12年に「甘楽ふるさと農園」3haの開園にこぎつけました。

有機農業実践の農園として開園し、農薬、除草剤、化学肥料を使わず安心安全農業を目指しました。周辺地域の農家からは“そんなことをしたら草に命をとられる”とも言われましたが、草取りに励み、美味しい野菜だと多くの人たちが上毛三山(赤城山・榛名山・妙義山)を望む丘の上で汗を流しています。

このような農業振興の仕事にあたったときの上司の課長からは「茂原君、いつかは退職を迎えるが、職員を前に退職の挨拶をする時『大過なく〇〇年過ごせた。お世話になった』などの挨拶をしてはいけない。『大過なく』は何もしなかったことと同じで、長い職員の時代には色々なこと、中過、小過とは言わないかも知れないが、こんな成功もあった、間違いもありその時はこうして乗り切ってきたと後輩に伝えられる職員になれ」と言われていました。

町一番の宝は職員。「町役場は町の人たちの役に立つ場所で、町民みなさんのために働く場所だから多少の失敗も恐れずに」と言いながら、「行政は大過なく」と心で思っていることは古稀のせいかと思いながら反省です。

歴史を生かしたまちづくり。自然を生かしたまちづくり。都市農村交流。国際化への試みと多くの目標を掲げみんなで酒を酌み交わしながら議論していた時代を懐かしく思い出します。仕事の推進は「素面で討論、酔うて決定」、「酔うて討論、素面で決定」とも上司の教えでした。