三重県木曽岬町長 加藤 隆
木曽岬町は木曽川の河口部に位置し、広大な伊勢湾を望み川や海の恵みを受けながら水郷輪中の村として発展してきました。
春は菜の花畑、秋には見渡す限り黄金色の稲穂がなびき、トンボやイナゴが無数に飛び交う中、私達は畦道を通って小学校へ通ったものです。 夏になれば木曽川や鍋田川(支流で愛知県との県境)でハゼやボラ釣りとか、潮干狩りを楽しみ、泳ぎを覚え、私達木曽岬っ子は木曽川によって鍛えられ逞しく成長し、 木曽川はまさに母なる川であります。
遠く東に木曽の御嶽山、西には鈴鹿山脈を眺め、木曽川の雄大な流れと伊勢湾を望む水郷輪中の長閑な木曽岬村が、昭和三十四年、空前の伊勢湾台風に襲われ、 小さな輪中の村は一溜りもなく一瞬にして全村呑み込まれ、三百二十八名(人口の一割)もの尊い命が奪われ、全村水没し流木の山と化し、 当時の新聞は「死の海、木曽岬村」と報道しました。今もはっきりと目に浮かんできます。台風一過、翌朝は嘘の様に真っ青に晴れあがり眩しい程に澄みきった雲一つない秋空の下に、 僅かに助かった家の屋根がポツンポツンと海に浮かんで見えた光景。友達の顔が浮かび、あいつも、あの子も流されてしまったのだろうか、助かっただろうか。九死に一生を得た私達は、 一夜にして変わり果てた村の姿に、誰もが「もう二度と村には住めない」と涙を流しました。
しかし、失意のどん底の中、全国の皆さんから寄せられる救援物資や力強い励まし、総力を挙げての復旧作業に支えられ、お蔭様で復興し甦る事ができました。絶望の中、 全国の皆さんに支えていただき、生きる希望と勇気を頂き、命の尊さを学び人々の温かさを生涯忘れる事は出来ません。
あれから五十七年、「天災は忘れた頃に来る」とよく言われますが、阪神大震災、東日本大震災、そして熊本地震、更にはかつてない局地的豪雨や土砂災害等、 被災地の傷跡や苦しみが癒えないうちに大災害が発生しています。改めて犠牲者の方々のご冥福をお祈りいたしますと共に、被災地の皆様にお見舞いを申し上げる次第であります。
南海トラフ巨大地震や津波が心配される中、海抜ゼロメートル地帯の当町では、高潮堤防の耐震工事や河川防災ステーション、津波避難施設や排水機場の整備とともに、 防災行政無線のデジタル化と戸別受信機の全戸更新事業等、防災減災対策を最優先に取組んでいます。
一方近年は、大気汚染や地球温暖化が進み、巨大台風や想像を絶する豪雨や土砂災害が頻発しており、防災対策と共に地球環境対策は最早先送りできない重要問題であります。
木曽川の悠久の営みによって発展してきた木曽岬町ですが、一方で、洪水との闘いの歴史の町でもあり、木曽川上流の環境保全は下流域にとって極めて重要であります。
わが町(水郷輪中)誕生のルーツは、美しい森と山々に包まれた木曽川源流の里であり、下流域で暮らす私達は、森を育て、山を守る事の大切さを改めて考えて行かなければなりません。 そこで、木曽川の上下流域の交流を熱心に取り組んでおられる長野県木祖村を尋ね、木曽岬町の子どもたちに美しい森や山によって川や海が守られている自然の大切さを学び、 下流の町にはない源流の里の魅力や暮らしの体験学習と合わせて木祖村との交流をお願いさせて頂いたところすっかり話が弾み、以来交流を重ねています。
今年も木曽川源流夏祭りに参加し、木祖村の皆さんと郷土料理を頂きながら話が盛り上がり、夏祭りを満喫して夜の帳が下りる頃、木曽路を後にしました。
木曽川は、延長二二九キロあり流域の長野、岐阜、愛知、三重の四県を下り伊勢湾に流れを注いでいます。母なる川、木曽川が結ぶ上流、下流の縁(えにし)に感謝し、 災害のない木曽川の悠久の流れと流域の安寧と発展を心から願うものであります。