奈良県町村会長・十津川村長 更谷 慈禧
我が十津川村は紀伊半島の中央に位置し、陸の孤島と呼ばれるほど山深く厳しい環境の中にあるにも関わらず、先人達は日本の歴史の様々な場面に登場する。
司馬遼太郎先生は、著書「街道をゆく 十津川街道」の中で、十津川村は、「日本の歴史の中で、中央の政治に対し関心を持ち続けた唯一の山郷と云えるし、 さらには中央の権力に対し一種の独立を保ちえた唯一の山郷ともいえるのではないか」と例えている。
幕末、京都御所の守衛を命じられ御親兵となり、「京詰」といって十津川屋敷を作り300人が半年交代で御所守衛を6年間勤めた。これは、御所守衛を朝廷へ申し出て認められたものであり、 村民が自ら決断した事によるものだった。このように国の一大事には、村民が一つになり、「勇んで打って出る」という十津川精神から山を伐採し財源を捻出し、国事に関わってきた歴史がある。 自治と伝統を「安堵」してもらう為である。
この行動により十津川郷士が世に認められたのと裏腹に村は疲弊し、山の伐採による地力の低下も一因となり、三日三晩降り続いた雨が災害を引き起こした。明治の大水害である。「死者168名、山林崩壊1080カ所、 土砂ダム37カ所、発生土砂量2億立方メートル」。先人たちは荒涼の地と化した郷土の復興に立ち上がるとともに、2,600人が北海道石狩の地へ移住し、開拓したのが今の新十津川町である。
あれから122年、平成23年9月紀伊半島大水害が再び襲来した。「死者、行方不明者13名、山崩れ70カ所、土砂ダム3カ所、発生土量1億.」。道路はいたるところで寸断し集落は孤立、 ライフラインも完全に崩壊した。
国、県、自衛隊、警察皆様の支援を得ながら、職員が約2カ月間、役場に泊まり込み復旧に当たった。私も村長室に泊まり込み復旧の指揮をとった。村民の、不自由な生活の中で、「こんな山に住んでいれば、 山も崩れるわ」と現実を受け入れ一致団結し、支え合う姿から、不撓不屈の十津川精神が息づいていることに誇りを感じた。
過疎高齢少子という課題、その上にこの大災害。深夜眠れぬ中で、村の将来に対する不安の中で思いあぐねた。
奇しくも、村の林業は瀕死の状況であった。ただ漫然と木材価格が低下するのを指をくわえて眺め、「山は儲からないからダメだ」と言い放つ、放置する。 山に寄り添って生きてきた「山の民」が経済性だけを追い求めた結果であった。
山に対し「畏敬」と「感謝の念」を持ち、もっと山の手入れをしていれば、これほど山が崩れることはなかったのではないか。尊い命を守ることが出来たのではないか。自問自答を繰り返した。 多くの山崩れは深層崩壊であり、山の手入れは直接には関連しないのかもしれないが、その思いが頭から離れなかった。
十津川村は村としては日本一広い面積(672k㎡)を有し、その96%までが山林である。人工林は年間18万立方メートルも成長している。 もともとこの村は山のお蔭で育った林業立村であった。「山を守ることは、川を治めること、ライフラインを守ること、尊い命を守ること、国土を守ること、ひいては地球環境を守ることが出来る」。 我が村の責務は林業再生である。「山にこだわる。木にこだわる」。十津川式6次産業のスタートである。
先人達の行ってきた「安堵」を獲得する術を、今を生きる時代に適した方法で実現したいと考えている。
そこで今、我々は、林業の循環の中で生産される木材という自然素材を、都市住民のニーズに応えながら住宅や家具として使っていただき、 健康で幸福に暮らしていただくという「十津川式6次産業化」の取組で、村に仕事をつくり、山を守っていくことで、 都市住民と山村の民が共に豊かに安心して暮らしていく「共生」の時代を目指し、「自治」と「伝統」を「安堵」したい。
先人から脈々と受け継がれてきた「勇んで打って出る」という十津川精神で、私は「山を守る」という山の民の責務を果たしていく覚悟である。