宮崎県川南町長 日髙 昭彦
はじめに
本町は、戦前から戦後にかけて開拓事業により大きく発展したことから、日本三大開拓地として知られ、その際に全国から農業を志す開拓者が入植したため「川南合衆国」とも呼ばれている。 口蹄疫からの再興に取組む畜産業をはじめ、耕種農業、漁業が営まれ、開拓の町らしく第1次産業が盛んな町だ。
さて、昨年(平成26年)は、宮崎県人がブラジルに移住して100周年という記念の年だった。現地で開催された「ブラジル宮崎県人会創立65周年及び県人移住100周年記念式典」に参加して感じた、 本町とブラジルの不思議な縁について記す。
1 ブラジルへ・・・まずは感動から始まった
到着するや否や、我々日本人がブラジル国民からジャポネース・ガランチード(信頼できる日本人)と呼ばれていると聞かされたことは、大きな誇りであり、感動であった。
それは、移住者の方々が生活環境・文化・言葉の壁や過酷な労働に苦しみながらも夢や希望を失うことなく努力を積み重ね、社会に溶け込もうと生き抜かれた証であると思う。 その先人達の姿に改めて敬意を表したい。
2 それにしても遠い
子供のころのジョークを思い出した。“地面に穴を掘り続けていくとブラジルに出る。”とにかくその道のりは遠かった。飛行機を乗り継いでの35時間の旅。機内で朝昼晩の3食を食べる経験を初めて味わった。
100年前は3カ月の船旅。想像を絶する覚悟であったろうと思う。なおかつ、無事ブラジルに到着した後の国内移動も更に過酷さが増したのは、言うまでもない。
3 不思議な縁に引き寄せられて・・・
日本にとっての最大の移住地はブラジル。日本全国から約25万人が移住し、現在では160万人を超える世界最大の日系社会である。宮崎県からは約4,000人。 川南町からも118人(南米には169人)が渡られたそうだ。皆さんの知り合いの中でも数多くのブラジル移住経験者の方がいらっしゃるのではなかろうか・・・?
100年前に初めてブラジルに渡った宮崎県人が私の地区の人であり、故人に代わり記念表彰を受けた。その後70年移住が続いたが、なんと不思議なことに最後の移住者も本町出身者で、 しかも私の高校までの同級生であった。宮崎県人の移住は、川南にはじまり川南で幕を閉じたのだ。
4 カルチャーショック(日本との違い)
とにかくブラジルは広い。日本の23倍。それ故におおらかな国民性なのであろう。
(1)「少々、お待ちください。」
せいぜい2~3分と思いきや、なんと1時間・・・。飛行機等の30分遅れは当たり前であり、アナウンスすらない。さすが、とてもおおらかなお国柄である。
(2)「私の農場は、すぐ隣ですから・・・。」
よく聞いたら500㎞も離れていた。東京から京都ほどに離れているのに隣なのだ。
(3)「日本の自動販売機は屋外にあるのですか?」
ブラジルだったら、すぐ壊されるそうだ。日本の治安の良さは世界に誇れる。
(4)陽気なサンバの国。落書きもアートなのだ。
とにかく落書きが目につく。しかしよく見ると二通りあるようだ。仕事としてやっている「道のアーティストの芸術」とギャングが存在感を示すための「無秩序な落書き」。ばれたら処罰されるのだが、 いかに困難な場所に、いかに見つからずに描くかを競っているらしい。
(5)肉料理が大好き
日本人がよく言う「食べすぎたかな?」は、通用しない。その桁違いのスケールは、お見事の一言に尽きる。
今さらながら「百聞は、一見に如かず」を実感するとともに、移住をこころざし、価値観の異なる異国の地で、最大の日系社会を形成した移住者達と、鍬一本で開拓に臨み、 我ふるさと川南の今を築き上げた先人達を重ね、あらゆる困難とまだ拓かれぬ未知に立ち向かった“開拓魂”を誇りに感じた。
人口減少が大きな社会問題となり、日本人が未だかつて経験したことの無い未知の領域に向かっている今、町民の“開拓魂”にもう一度火を灯し、ともに困難に立ち向かい、 道を切り拓く覚悟が持てた、貴重な旅であった。