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栄枯盛衰は世の習い 先人の礎を守り将来を切り開く

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年3月17日

北海道羽幌町長 舟橋 泰博

 

北海道日本海沿岸を走る国道や羽幌町のある道北地域はいつの頃からか、オロロンラインと呼ばれるようにイベントや商品名にオロロンの冠をつけることが多い。 このオロロン街道(国道)が走る西海岸は一年を通して風が強く吹く、日本有数の風力発電の供給適地としても注目を浴びている。福島の原発事故の発生を受け、安心、安全、 そして安定したエネルギーの供給が求められ、全国各地で自然再生エネルギー基地の建設が推し進められている。

このように動きや対応を見ても、まちづくりを進める上で最も大切な要素である産業の堀起しは、原発の建設もそうだった様に、思わぬ流れの中から突然湧いて出る事もある。

我が町の姿を振り返ると、まさに炭坑開発がそのものといえる。海岸に面した市街地区から30㎞ほど山中へ入ると、 昭和初期から開発が始まり昭和30年代後半に隆盛を極めた炭坑跡地が朽ち果てた姿となって現れる。最盛期には年産100万トンを超え黒煙を上げ石炭列車が走り、全国に名を轟かすほどの活況を呈した。 この頃、町中のあちこちに見られたブリキの看板や石炭袋に書かれた宣伝文は「灰と煙の少ない羽幌炭」だった。

今でも思い出される姿は、冬を迎える時期の風物詩でもあった、石炭を積んで運ぶ馬そり、庭先に下ろされた石炭を石炭小屋へ運び入れる作業の様子、柔らかい暖かさを放つ石炭ストーブの「あくとり」である。

そして、炭坑はスポーツにも力をいれ、特に全国都市対抗野球には2度羽幌町の名を背負って出場するなど、スキージャンプ、男女バレー等全国レベルでの活躍は北海道の羽幌町を全国に知らしめた。しかし、 この活況も30年間(昭和45年)で突然幕を下ろした。

より効率的な資源として安価で良質の輸入炭が増え、一方で石炭から石油へとエネルギー革命が進んだ事が大きな要因である。 後にテレビの全国放映で「北の大地 1万人が消えた幻の楽園」のタイトルとなった事でもその活況と衰退がわかる。

閉山から四十数年、現在、人口は7800人、最多時の4分の1になったがこの間、離島ブームや好景気が支えとなり町は一次産業を中心とするまちづくりへと変貌してきた。

市街区を分断していた羽幌川を切り替えて出来た広大なリバーサイド跡地に住民が集える施設等を建設し街区の一体化を図り、失われた川辺の環境は町の自然保護団体によりビオトープ構想の下自然再生に取り組み、 植樹や水辺の環境再生に住民参加で活動を始めた。

また、炭坑隆盛の中で存在感が薄かった天売島(昭和30年合併)、焼尻島(34年合併)は道立公園から国定公園となり、天売島には最盛期には数万羽の飛来があり、 島のシンボルでもあったオロロン鳥は現在数羽と激減し、その保護増殖に環境省とともに取り組みを進めている。他にも数多くの海鳥が生息し海鳥の楽園と言われる中で、 特に善知鳥(うとう)は30万つがいのコロニーを形成し世界一と言われる規模を誇っている。一方寄り添う様に位置する焼尻島は春の訪れとともに数多くの野鳥が緑豊かな島にやって来る。 牧歌的なサフォーク牧場とともにその景観を楽しむファンも多く、二つの離島を持つ観光の町としての我が町の大きな財産でもあり、すばらしい資源として活きている。

さらに漁業資源は北国の厳しい荒波の中で四季折々の魚種に恵まれ、特に甘エビの漁獲量は日本一を誇り訪れる方々に喜ばれている。

わが町は厳しい自然環境の中で先人達が地道に築きあげてきた礎を、今まさに地域の力として生かしている。炭鉱閉山は地域経済に大きな打撃を与えたが、 残された地域資源を生かすべく住民は様々なチャレンジを続けて今の羽幌町がある。時の資源(宝)は山から海へ移っている感がするが、希薄に成りつつある自然を守る事の大切さや、 未来へ引き継ぐ役割など自然再生の様々な活動の中から優しく、温かな町の未来へ若者達の活きるための取り組みとして継承していかなければならない。