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故郷に想う

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年3月3日更新

和歌山県由良町長 畑中 雅央

 

私の故郷由良町は、和歌山県のほぼ中央に位置し、西は紀伊水道に面して遠く四国を臨み、その海岸線には、氷山のように真っ白い岬が突出し、 石灰岩の奇岩が点在するその美観は古く万葉集にも詠まれています。東は白馬山脈の連峰を境として、北は有田郡、南は日高町と接して、東西10.9㎞、南北6.6㎞、 面積30.74k㎡の海と山に囲まれた風光明媚な町です。

由良港は、天然の良港で港内は広く、水深の最も深いところで22mもあることから、船舶の避難港として指定されているほか、 昭和48年に三井造船株式会社(現(株)エム・イー・エス由良)が港の一部に船舶修理工場を、昭和60年には株式会社春本鐵工(現(株)駒井ハルテック)和歌山工場が操業を開始するなど、 港を中心に発展してきました。

自宅から50メートル程の緩やかな細い坂道を下ると目前は衣奈漁港、私が育った衣奈地区は、250戸余の半農半漁の集落で、 1トンに満たない木造船が船揚場に整然と陸揚げされていた小さなのどかな漁港でした。今は、二車線道路が湾に沿って通り漁港施設の物揚場や防波堤、 埋立地が整備され見違えるほど変貌していますが、我が故郷の青い海は悠々と広がっています。

幼い頃夏になると、近隣の友達と連日海に行って泳いだものです。

防波堤の先端から2~3メートルほど下の海面目指して飛び込んだり、川幅5メートルほどを泳ぎ渡ったり、 水中に潜り苦しい息の中で5センチメートルほどのハゼをヤス(金突)で取って喜んだり、幼い私にとっては冒険をしたつもりで、真っ黒に日焼けし体の皮がむけるまで遊び廻ったものです。

夕方には近くのみかん畑へ行って土中から這い出してくる蝉の幼虫(むく)を採取し、鳥かご等に入れて羽化させたりするのが日課でした。

秋から春にかけては、近くの裏山には夏みかんが段々に植えられた畑、山中に入るとアケビ等がたくさん取れる里山等、遊ぶ場所としては事欠きませんでした。

野荒しをして夏みかんを拝借したり、田んぼに入りカエルを追っかけたり、雑木を切って木刀を作りチャンバラ遊びで畑の中をかけ廻ったりして随分と迷惑をかけたことを思い出します。

高校を卒業する昭和38年頃は、日本経済が高度成長期の真っ只中で、友達の大多数は京阪神へ就職し、故郷を後にしていきましたが私は都会への憧れもなかったし、 生まれ育った故郷衣奈を出て生活していく勇気も自信もなかったので、家族の勧める由良町役場に就職して以来現在に至っています。

平素の生活や職務の中で「故郷」をあまり強く意識してこなかったのが実情でしたが、平成20年5月の町長選挙に立候補し町民の支持を受けて町政を担当することとなりました。

町政推進の基本方針として「ふるさとに誇りと活力を」をスローガンに万葉の昔から和歌にも詠まれた風光明媚な景観を有し、紺碧の海、白い岬など大自然に恵まれた由良町、 更に「金山寺味噌」や「醤油」の発祥の地である開山興国寺など、貴重な文化財にも恵まれている故郷由良町に自信と誇りを持つとともに、先人たちが愛し、 築き上げた貴重な財産を更により良いものにして次の世代に受け継いでいく為の先導役としての責任を重く感じながら、町政に取り組んでいる日々であります。

春雨に映えて眩しいような薄緑や緑に萌える新緑に包まれた山、秋には黄色、茶色に紅葉した木々に混じってひときわ艶やかなハゼの紅色など、 今まであまり感じなかった自分を育ててくれた故郷の里山を眺めながら職場に向かう今日この頃です。