東京都小笠原村長 森下 一男
東京から南へ1千キロ。私達の住む小笠原諸島(父島、母島)があります。太平洋戦争末期の昭和19年、父島、母島、硫黄島に住む5村約7千名余の島民は強制的に疎開させられ、 全国各地に散り散りとなります。
敗戦後、小笠原諸島は米軍の統治下におかれますが、故郷を忘れることのできない旧島民の皆さんは、熱心に日本への返還活動を行いました。
その努力が報われ、日本への復帰がかなったのが昭和43年6月26日のことでした。私は19歳、多くの先輩たちが涙していたのを今でも鮮明に憶えています。
昭和47年3月、私は片道44時間かけ父島二見港に降り立ちました。23歳になろうかというときです。
青い海、緑の芝生、どこまでも青く澄んだ空。外国に来たかのようでした。
戦前から住んでいる欧米系の人たちも数多くいましたから、なおのことだったのかもしれません。
昼間は海で遊び、夜は天の川を観る。仕事やスポーツを通して知り合った仲間と自然を肴に美味しいお酒を飲む、まさに別天地でした。
しかしながら、テレビも見れない、電話も3回線しかなく皆で順番待ち、船は10日に1度で、新聞も10日分ずつ来るような生活は、都会で暮らしていた私には退屈でつらくなってきます。
そんな気持ちを救ってくれたのが、24年間の空白を埋める為に、懸命に復興事業に取り組んでいる人達の熱意でした。そして同じ世代の仲間でした。
夢を語り、愛を語り、青春を謳歌しました。
一時期人が住まなくなった島の復興は、白地のキャンパスに新たに絵を描いていくようなものです。道路ができ、建物が立ち、港も整備され、日に日に島が変わっていきます。
小笠原航路も定期船となり、どなたでも来島することができるようになりました。
平成15年7月、私は村長になりました。「一歩一歩着実に」、「ひとつひとつ堅実に」、「そして何より誠実に」をモットーとして村政運営をしてまいりました。
人と自然が共生し、豊かな心を持った人材を育成し、小さくてもキラリと光る島にしたい。その一心でした。
帰島してから41年、小笠原は大きく変貌しました。美しく豊かな自然に恵まれた島々は世界自然遺産となり、多くの方々に来島いただいております。
海底光ケーブルも敷設され、テレビも電話も、インターネットも内地と差はなくなりました。定期船も6日に一便、片道25時間30分になりました。
超遠隔離島でありながら人口も順調に増加し、子供たちも元気に走り廻っています。
小笠原諸島は今年、おかげさまで日本復帰45周年を迎えることができました。
10月5日の返還記念式典には太田国土交通大臣、猪瀬東京都知事をはじめとする多くの御来賓の前で乳母車の子供からお年寄りまで470名参加のパレードをご披露させて頂きました。 大臣からは、「小笠原には夢、希望、未来がある」と祝辞をいただきました。
そうだ、そうなんだ。父島、母島約2600人の自治体だけど、小さくてもキラリと光る、他とは比較の出来ない島なんだ。
私たちは、他の人の経験できない贅沢な暮らしをしているのではないか?
ふっとそんな思いが胸をよぎりました。
2020年、オリンピック・パラリンピックの東京開催が決まりました。
私たち小笠原村が、素晴らしい大会になるために少しでも貢献できればこの上ない喜びであります。