ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > 町村長随想 > 「瀬戸内のハワイ」 周防大島町の驚愕の歴史

「瀬戸内のハワイ」 周防大島町の驚愕の歴史

印刷用ページを表示する 掲載日:2013年8月26日

山口県周防大島町長 椎木 巧

 

助役、副町長を経て町長に就任して5年になる。合併前の橘町に奉職してから公務員生活は47年にもなる。合併後9年目を迎え、漸く旧4町の垣根を越えた一体感も醸成されつつあると感じている。 よく好きな言葉を聞かれるが「天命に従って人事を尽くす」と答えている。まさか町長になろうとは思ってもいなかったが、これが天命であったと受け止めて「真面目に誠実に地道に謙虚に、 そして確実に」をモットーに取り組んでいる。

観光交流人口100万人(現在は93万人)の目標に向け都会の中高生の体験型修学旅行の誘致など色々な施策の展開は進んでいる。しかし過疎、高齢化、 人口減少というモンスターのような課題には負けっぱなしだ。ピークの昭和22年(1947)に65,000人の人口は現在20,000人を割り込んでおり、超高齢化社会は色々な歪みを生み出している。

大きな課題は過去の歴史に学ぶことが大事といわれる。瀬戸内海に浮かぶ周防大島町(屋代島)は面白い歴史に満ちている。江戸時代は飢饉が相次ぎ日本全体としての人口は増えていない。 武士を除いて2500万人前後で推移したにもかかわらず周防大島では爆発的に人口が増えた。元文2年(1737)15,033人、天保13年(1842)60,706人と105年の間に4倍に増えている。 日本中これだけ人口増加した地域は他にないと思われる。要因はサツマイモと出稼ぎである。コメは半分以上年貢として収めるのに対し、 サツマイモは野菜とみなされ年貢の対象にならず作ればつくるほど自分のモノになった。やはり経済的な自立が地域の発展には欠かせないことを歴史が示している。

周防大島は本州と大島大橋で結ばれており、淡路島、小豆島に次ぐ瀬戸内海3番目の面積を有し、近年、日本一のアワサンゴ群生地が発見され、本年2月に環境省から瀬戸内海初の海域公園地区の指定を受けた。

また、先日、自治体国際交流総務大臣表彰を受賞した。今年はハワイ州カウアイ島と昭和38年(1963)に姉妹島提携を締結して50周年を迎える。

ハワイ王朝政府との移民条約によって明治18年から9年間の官約移民の渡航者は総数29,000余名、うち、山口県から10,400名を数え、大島からは4,000名がハワイに渡った歴史がある。 昭和元年(1926)の海外在住の周防大島出身者はハワイ、アメリカ本土、南米等あわせて6,249名との記録が残っている。当時の人口が57,000人だから移民率は11%と驚くべき数字だ。当時、 海外から大島に送られてきた現金は226,300円といわれており、現在の貨幣価値で9~10億近い金額である。海外で稼いで故郷の家族に送金するハワイ移民の島、まさに海外への出稼ぎだ。

6月22日の姉妹島提携締結の日から役所も銀行も病院も街中アロハシャツが公用着となる。20年も前からクールビズならぬアロハビズだ。アロハ(感謝と友愛)の心で迎えるキャンペーンだが、 古来より周防大島の人々にあったもてなしの心と同じだ。そもそもアロハシャツは移民が着ていた浴衣を短く切って着やすくしたのがルーツと言われている。 このような歴史に裏打ちされた交流も時代の流れの中で、周防大島出身者との交流だけではなくカウアイ日本文化協会やカウアイ郡との交流となり、 次の時代を担う子供たちの交流に繋げていくことが重要となっている。中高生のホームステイ研修や、専門学校生の語学研修も続いている。

近年は周防大島でフラダンスの大ブームである。華やかなフラドレスで保育園児達はカウアイ島から贈られたオリジナルフラソングに合わせ見事なフラダンスを舞ってくれる。町内のホテルや道の駅、 スポーツリゾート施設などを会場に、屋外の天然芝をステージに美しい星空の下で毎週土曜日に開催されるサタフラ(サタデーフラ)が大人気、瀬戸内のハワイでアロハな土曜日に素敵なフラを披露してくれる。

周防大島町の今年の夏は、遠く県外からのサタフラ出場チームもたくさんあり幸せな笑顔であふれている。

皆さんも驚愕の歴史とアロハな瀬戸内のハワイ周防大島町へぜひ一度!!

周防大島町PRサポーターのみかキン、みかトトです。