長崎県川棚町長 山口 文夫
川棚町は、長崎県のほぼ中央、佐世保市の南側に位置し、東には九州のマッターホルンといわれる峻険な虚空蔵山がそびえ、西には県立自然公園に指定されている風光明媚な大崎半島があり、 町の中心部には大村湾へと注ぐ川棚川が流れる、面積37.25k㎡、人口1万4千8百の自然豊かな町です。
さて、近年、戦争遺構が注目を集めています。戦争を知る世代が減少の一途をたどる中、悲惨な戦争というものを後世に伝える生きた教材として、その価値を見直そうという、いわば時代の声であるように思われます。
川棚町に残るそうした戦争遺構のいくつかをご紹介したいと思います。
三越郷という地区に大正7年に設置された「魚雷発射試験場」の遺構があります。
これは、佐世保海軍工廠で製造された魚雷を発射試験するための施設であり、波静かで大型船舶の往来が少ない大村湾にあって、当地が、魚雷を発射し、その航跡を観測するのに絶好の場所だったため、 設置されたものと伝えられています。
そして、昭和17年、佐世保海軍工廠は、軍備増産と空爆被害の分散を図るため、川棚町に分工廠を設置し、翌18年にこの分工廠が正式に「川棚海軍工廠」となりました。
この川棚海軍工廠は、川棚町の海浜約20ヘクタールを埋め立てて急造された広大な施設であり、当時日本一の規模の水雷工場であったといわれ、雷撃機に搭載する九一式航空魚雷が製造されました。
また、町内にはこの工廠のみならず、工員、職員、海軍技術者の住宅、工員養成所、勤労動員学徒の宿舎、海軍共済病院の建設など、広範多岐にわたる建設工事が昼夜兼行で推進されたことにより、 昭和9年の町制施行時には7千6百人ほどであった人口が1~2年の間に2万数千人にふくれあがり、地域の様相が一変したといわれます。
この軍の事業に対応して、大規模な都市計画も計画され、最終的には川棚町を人口5万人規模の市街にするという壮大な計画であったといわれております。
一方、昭和19年3月には日々悪化する戦局を挽回するため、新谷郷に「川棚臨時魚雷艇訓練所」が急設されました。
これは、水上特攻艇の乗組員訓練基地であり、主として「震洋」と名付けられた特攻艇の訓練が行われました。
この特攻艇はベニヤ板製のボートにトラックのエンジンを搭載し、艇首に250キロ爆薬を装備したもので、20歳に満たない多くの若者がこの地において過酷な訓練に励み、 そして主に南海方面に出撃したといわれます。
有志により昭和42年にこの訓練所跡地の一画に、遠く南海の果てに散った3千5百柱余りの尊い魂を顕彰する鎮魂の碑「特攻殉国の碑」が建立され、毎年5月には慰霊祭が営まれています。
慰霊祭には毎年欠かさず参列いたしますが、その度に、当時の過酷な時代に思いを馳せるとともに、現在の平和の尊さを心から有難く思う次第です。
さて、わが川棚町は、来年の平成26年度は町制施行80周年という節目の年を迎えます。
折しも、この平成26年秋には、第69回国民体育大会「長崎がんばらんば国体」が開催されます。
川棚町は、ホッケー競技の少年男女の部の開催地であり、平成23年に新設した人工芝ホッケー競技場において、10月17~21日の5日間にわたって男女10チームずつの合計20チームにより、 熱戦が繰り広げられます。
本町においても少年の部の川棚高校の男女ホッケー部と成年の部の地元男女チームがそれぞれ出場と上位入賞を目指して日々強化に励んでおります。
ホッケー競技は、昭和44年に開催された一巡目の長崎国体においても川棚町が開催地であり、そのときは少年男子が第3位の成績を収めましたが、今回はそれを上回る成績を収めるよう活躍を期待しているところです。
また、この「長崎がんばらんば国体」に先駆けて、今年は国体プレ大会として「全日本社会人ホッケー大会」が9月14~18日の5日間にわたって開催されます。
今年のプレ国体及び来年の本国体において全国からご来町される選手・役員や応援の皆様を町民一同あたたかいおもてなしの心でお迎えし、本町のよさをPRしたいと考えておりますので、是非お越しください。