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悲願!三坂道路開通に想う

印刷用ページを表示する 掲載日:2013年4月1日

愛媛県久万高原町長 髙野 宗城

 

久万高原町は四国の中央部に位置し、温暖なイメージの愛媛県にあって、四国の軽井沢などとも呼ばれ、春の新緑、秋の紅葉はもちろん、夏は避暑地として、 また冬はウインタースポーツで賑わうなど、四季折々の楽しみ方ができる自然豊かな町です。面積は県下最大の584k㎡で、そのうち山林が9割近くを占めるため、 人口は1万人ほどとなっていますが、農林業が盛んな元気な町です。

さて、今から1年ほど前の平成24年3月17日、久万高原町と県都松山市を結ぶ住民悲願の「三坂道路」が開通いたしました。ここに至るまでの道程を想うとき、 郷土の発展に懸けた先達の情熱に、深く頭を垂れるほかありません。

「三坂越えすりゃ雪降りかかる
もどりゃ妻子が泣きかかる
むごいもんぞや久万山(明神)馬子は
三坂夜でて夜もどる」

これは「旧土佐街道最大の難所」と言われた三坂峠の、当時の情景を伝える「三坂馬子唄」の一節です。この時代に、重荷を引いて三坂峠を越えることは、過酷で命がけの 労働であったことが窺えます。

明治に入って、上浮穴郡長の桧垣伸氏らが中心となり道路建設事業に奔走され、同25年に現在の国道33号の前身となる四国新道が完成しました。その後改修を重ね、 昭和42年には国道33号全線が舗装改修され、松山市と高知市を結ぶ最短幹線道路として愛媛・高知両県の産業経済の発展に大きく貢献してきました。

しかしながら、昭和の後期になっても三坂峠が国道33号最大の難所であることに変わりはありません。標高720mの頂上付近は急勾配に加え急カーブが連続し、冬季の 積雪凍結時には相変わらず命がけです。このような状況の中、上浮穴郡の5町村、議会、住民の働きかけなどにより、昭和60年に愛媛県・高知県の沿線市町村による 「国道33号整備促進期成同盟会」が組織され、懸命に要望活動を行いました。そして、地元選出国会議員、県議会議員の方々の力強いご支援と国土交通省、愛媛県並びに 地元地権者の方々の格別なご協力を得て、平成8年に待望の事業化が決定しました。それから16年の時を経て、昨年3月の開通に至ったのでございます。

前述の桧垣氏は道路整備を行っただけではなく、四国横断鉄道の必要性を説き、凶荒予備組合の基を築き、植林を推進するなど郷土の発展に特別な想いで尽くされました。 氏は晩年「自分は上浮穴郡長として赴任して以来、力の限りを尽くしたが、ついに四国横断鉄道の開通を見ることはできなかった。私ごとには少しも心残りはないが、 死んでからも骨を久万の地にとどめて、生ある間に成し遂げられなかったことが、成し遂げられる日を見たい。」と語ったと言われています。

明治25年の四国新道の竣工から120年が経ちました。桧垣氏が、開通した三坂道路を見たらどう思うでしょうか。

三坂道路は、標高390m付近から頂上の720m付近にかけて連なる急カーブ急こう配の区間を回避し、新たに自動車専用道路を造ったもので、全長7.6㎞のうち 4.4㎞がトンネル、残りのほとんどの区間が高架橋となっています。120年前にはなかった技術でトンネルと高架橋を組み合わせ、三坂峠を通ることなく町外に行き来することが 可能となりました。つまり、難所が消えたということです。これにより、町の中心部から松山インターチェンジまでわずか30分ほどとなりました。四国横断鉄道は未だ 運行されていませんが、桧垣氏の夢は、この三坂道路と高速道路を組み合わすことで、ほぼ実現したと言っていいのではないでしょうか。

多くの方の「志」と「努力」で現実のものとなった「三坂道路」。この財産をまちづくりに活かすことが先達の意志を継ぐことであり、私の使命であると肝に銘じたいと 思います。

四国・久万高原町には、西日本最高峰の石鎚山やその裾野に溢れる清流を集めた面河渓谷、また日本三大カルストのひとつである四国カルストなど、全国に誇れる美しい 自然があります。皆さまぜひ一度ご覧下さい。