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「小国寡民」で、いいじゃないか

印刷用ページを表示する 掲載日:2013年1月7日

茨城県東海村長 村上 達也

 

「我がまちはこういう所だ」と、始めるべきと思うが福島原発事故の後のこの時期、原子力発祥の地と言われ村内に原発を抱えた者としてどうもその気になれない。 不粋な話だが、いきなり原発問題から入らせてもらう。

古里を追われている福島県民は十六万人、また福島、郡山市などの放射能高汚染地区に住み続けているのが数十万人、こういう犠牲者を生んだあの福島原発事故の 原因究明は本当になされたか。その結果、原子力政策、エネルギー政策は変わったか、体制や仕組みはどうなったか、これら国民的、国家的課題は事故勃発から二年近く 経とうとするが、方向性が何も見えない。国会は政争に明け暮れ何事も決定できない政治状況も一因、でもそれが根本とは思えない。

原因はこの国の真髄に、我々日本社会の精神構造、意識構造にあるのではないか。我々日本人は「和」を特別重視するが、実はそれは言葉を換えれば仲間意識、 利害を共有する利益共同体内だけのことでないか。集団内では「長いものには巻かれろ」と俗化して「和」は力を発現する。「原子力ムラ」なる言葉が事故後盛んに 使われてたが、言いえて妙だ。この「原子力ムラ」、原子力共同体は事故後早くは批判の俎上に乗せられたが、時の経過と共に勢力を復活し、あれだけの事故を起して おきながらも改革を拒んでいる。

「原子力ムラ」とは何ぞや。一言で政官業学マスコミが一体となった強力な利益共同体、そして権力集団化としている。比肩できるものは戦前の軍部、これは原子力開発が 「国策」として推進されてきた当然の帰結。この「ムラ」の中には原発立地自治体も組込まれている。

損害賠償額は五兆円、除染費用は20兆円とも言われている。その金は誰が負担するか、言うまでもなく国民だ。かかる事故を起しておいて原発復権を策する自体、 傲慢である。先の大戦は自己中心的驕慢な陸大出のエリート軍人達が仲間内の世界で全て判断、決定し国を滅ぼした。今も「この国はエリートが滅ぼす国」なのだ。 「原子力ムラ」のエリートも同じだ。目先の金に惑い戦前と同じ轍を踏むまい、所詮原発マネー依存での繁栄は「一炊の夢」に如かず。

一直線の発展など歴史にあった例はなく、栄枯盛衰は世の常、東日本大震災(天災)と福島原発事故(人災)で知らしめられた。実は20年も前から日本は大きな転換点に 立っていた。日本の経済力は1994年に世界のGDPの18.8%も占めたが、今や8.4%にまで落ち、今後更に減少していくのは避けられない。しかしこの国は成長発展の夢を 追い求め転換期の20年を失い国家財政を破綻に追い込んでしまった。一方少子化(人口減)の中で高齢者の絶対数は急増を続けてる。3万7千人の我が村も過去10年で 高齢者が3千人以上増えた。これらはこの国の置かれた状況の一面だが、言えることは経済成長の言葉が出たら、冷めた目で対し、自らも住民の行政需要に財政規模の拡大で 応える成長前提の図式は捨てようということ。行政も住民も意識転換が求められている。

村にはニュートリノ研究、ハドロン研究などを行う世界最先端の原子核研究施設、大強度陽子加速器(J-PARC)というものが数年前にできた。 原発は労せずして巨額の金をくれるが、この施設からは電源交付金などは勿論、税金も入らない。しかし社会的価値や文化的価値は絶大、世界中の優れた研究者が村に やってくる。この価値をまちづくりに活かせるか否かは私たち住民の力量にある。こういう時代だから挑戦し甲斐がある。

低成長時代の地方の自立は外側の力を願ってもだめ。外部依存でなく自らの力量で切り開く他ない。危険を冒して原発マネーに依存し時代の変化に不適応となる愚は 避けねばならない。そう言えば地方自立の根本理念は「小さくともキラリと光る」であった。「小国寡民」、それでいい。いわんや広域連合、道州制などもっての外だ。